今日(9月16日)の辺野古~第一ゲート完全封鎖

翁長知事の「承認取り消し」表明を受けて
辺野古キャンプ・シュワーブゲート前の抗議行動は
15日から工事車両専用ゲート(第一ゲート)を完全に封鎖する形で
新たにテントを張り、24時間の監視・座り込みが行われている。

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この日もゲート前には県内外各地から入れ替わり立ち代り
大勢の人たちがやってきた。

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このご夫婦は共に50年前集団就職で故郷・沖縄を離れ、現在も名古屋に住んでいる。
つい一年前までは周囲の人たちに「辺野古」の話をしても
「それって何?」と言われるのが普通だった。今は多くの人たちが関心を持って聞いてくれる。沖縄への共感は広がっている。自分のいる場所でできることを精いっぱいやりたい」と故郷への思いを熱く語った。

 

具志堅さん

具志堅隆松さん

ガマフヤーの具志堅隆松さん。
沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集を、ボランティアで長年続けている奇特な方だ。
太平洋戦争で亡くなった日本人の遺骨80万人以上が、いまだに収集されないままであるという。国内では沖縄がそのほとんどを占める。

「このキャンプ・シュワブは大浦崎捕虜収容所があつた場所で、ここで亡くなった人たちの埋葬地があった。戦後すぐに基地が作られたため立ち入りができなくなり、遺骨が収集されないままである。戦後処理も十分にされないまま、また新しい基地をつくることは許されない」と訴えた。

いまも沖縄戦で亡くなった父親の遺骨を探し続ける塩川さん

いまも沖縄戦で亡くなった父親の遺骨を探し続ける塩川さん

具志堅さんに発言を促されたこの方は佐賀県の塩川正隆さん(71)。19777年から150回以上も沖縄に通ってきているという。もちろん観光などではない。沖縄戦で亡くなった父親の遺骨を探し続けているのだ。
父・正満さんは塩川さんが生まれて一週間後に召集され、「沖縄の糸満で戦死」の公報が届いたが、遺骨の代わりに届いたのは一塊の石ころだった。

1977年から父親の遺骨を探して沖縄に通いながら、95年からは叔父が亡くなったフィリピン・レイテ島へも通い、戦没者の遺骨収集や130以上の遺品を遺族へ届ける活動を40年近く続けている。

このほど沖縄で戦死した父や、その遺骨を探し続けてきた自らの半生を綴った著書「ものいわぬ人々にー若者を戦場に送るな」を出版した。
「沖縄には戦後70年たっても、埋まったままの防空壕がたくさんあり、そこには沖縄県民が眠っている実態も知ってほしい」と基地の中の人たちへも訴えかけた。

「戦争へ繋がる基地の建設は許せない」思いを新たにした今日の辺野古ゲート前だった。

 

※ガマフヤー:「ガマ」は洞窟や壕など。フヤー:掘る人。埋没した防空壕などを掘り起し、遺骨を収集してきた具志堅さんは自らをガマ(壕)を掘る人「ガマフヤー」と称して活動してきた。

2015年9月18日リンクURL