伊江村民が戦時収容地の渡嘉敷村へ「感謝の訪問」

 昨日(9月28日)、伊江村民約200人が渡嘉敷島を訪れた。

 沖縄戦末期の1945年5月から1年2カ月にわたって伊江村民は、伊江島を占領した米軍によって強制的に慶良間諸島の渡嘉敷村(1700人)と、座間味村慶留間島(400人)に移送、ふるさとを追われ生活基盤のない見知らぬ土地で、苦しい生活を余儀なくされた。

 一方、日本軍によって「集団自決」に追い込まれるという地獄から生き残った渡嘉敷の人々は、避難していた山中から戻ると、自宅は伊江島の人に占められ、食料の乏しい中、厳しい共同生活を強いられた。

 戦後両村民が交流を深める「収容地感謝の訪問」は、今回4回目10年ぶりとなる。

 1996年に集落中央に建立された「伊江村民収容地跡記念碑」前で黙祷、献花を行いこの地でなくなった戦争犠牲者に祈りをささげた。

 名城政英伊江村長は感謝の意を述べた後、「自然豊かなこの渡嘉敷村の地は、80年前のあの悲惨を極めた戦争や、それに続く強制収容という苦難の歴史の中で、渡嘉敷村民には大変不自由をおかけすると共に、伊江村民にとっては命を繋いだ地であり、伊江村復興の地とも言える。この歴史を伊江村民は決して忘れることなく、未来永劫、子々孫々に伝えることが私たちの大きな責務。戦争で大きな犠牲を払った両村民の寛容な心とご理解、ご支援のもと1996年6月に恒久平和と友好・友情のシンボルとして『伊江村民収容跡地記念碑』を建立することが出来た。今回、生後間もない1歳児から95歳までの幅広い年齢の200人が参加でき、この地で命の尊さを感じ、生きる喜びをつぎ代に繋ぐ意義深い訪問になりました」とあいさつ。

 新里武広渡嘉敷村長は「ふるさとを追われ、見知らぬ土地での生活を余儀なくされた伊江村民の皆様のご苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあつたと伺っている。渡嘉敷村民もまた戦争による大きな被害を受け、困難な暮らしの中でありながらも、伊江村民の方々をできる限り受け入れ、支え合いながら暮らしていたと伝え聞いています。

 今回10年ぶりにこのような場を持てることは、過去の歴史に向き合い、感謝と和解の思いを新たにする大切な機会と感じている。平和とは決して与えられるものではなく、人と人との関りの中で育まれた真の連帯であると信じる。両村のこの絆を通して平和の尊さと命の重みをこれからの世代に語り継いで参りましょう」と応えた。 

 お互いに島の特産品を贈り合い自慢し合って和やかに交歓。

 30年近く碑の周りの草刈りなど、ボランティアで環境整備に尽力して来た小嶺智秀・美佐子さん夫妻に、伊江村から感謝状と記念品が贈られた。智秀さんは母親が当時渡嘉敷に移住・疎開していた伊江島出身。

 

     最後に伊江島民謡の演奏で締めくくった。

 感謝のつどいの後参加者は、思い出の場所を辿ったり、縁の人たちと記念写真を取り合うなどした後、正午に渡嘉敷港を出港、次の訪問地である座間味村慶留間島へと向かった。

 

2025年9月29日リンクURL

9月24日の辺野古 ~ 立民国会議員団が視察

 辺野古に着く早々不快な思いにさせられた。座り込みに来た人たちが送迎車の降乗などに利用していた舗道の囲い込みが拡大され、小型バスがやっと止められるかどうかの状況になっていた。
 ここは元々、普段は使われていない基地ゲートへの引き込み部分で、舗道まで距離があり、かなりの広さがあった。座り込みに来た人たちの駐車場に使用されていたが、数年前突然、舗道すれすれにコンクリート製の大きな植え込みBOXが3個おかれ、駐車が出来ない状況になった。防衛局の悪意を感じた。

 さらに3年前水道工事と称して、塀で囲われた。それでも送迎車の乗り降りや、Uターン場所にすることが出来た。今度は舗道を半分も覆う形に塀の囲みが拡大されて、送迎車が止まると、人は車道にはみ出して歩くしかない。

 座り込み行動に参加する人々は、これまで2度駐車場所を追われている。

 座り込み一回目は20人足らず、毎週水曜日の常連たちばかり。炎天下の暑さは相変わらずだが、青い空が澄んで高く感じられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 一回目の座り込みが終わり、テントに戻った11時少し前、立憲民主党の国会議員団の一行14名が、メインゲート前のテントにやって来た。辺野古はじめ沖縄視察で、「地位協定の改定を目指す」とそれぞれが一言挨拶。次の日程があるからと10分くらいで去って行った。座り込みには参加しないという。ここまで来て座り込みに参加しないのは残念だ。5分でも10分でも私たち市民と一緒に座り込んでほしかった。そうしなければ、夏の炎天下や寒い冬の日、大雨でも毎日座り込む県民の気持ちを、本当にわかったとはいえないであろう。

 立憲の議員さんたちと入れ替わるように韓国からの「琉球・平和旅行団」の皆さん(11人)が到着。戒厳令を発令しようとした前大統領を失脚させ、民主々義を守った闘いや、光州事件を民衆の力で闘い通した方々だという。見習いたいものだ。 

正午前、2回目の座り込みには韓国の皆さんも一緒に座り込んだ。

私はこの後沖縄市で次の日程があり辺野古を後にしなければならなかったため、韓国の皆さんから、沖縄の人たちと一緒に座り込んだ感想を聞くことが出来なかったが、元気に歌い踊って、沖縄の人たちを激励し、さらに埋め立て土砂を搬出している宮城島の抗議現場に向かったという。

カムサハムニダ(감사합니다)

 

 

2025年9月25日リンクURL

戦争は詐欺(ペテン)だ!! ~ 9月17日の辺野古

 朝目覚め身支度をするのに汗をかかなくなったことに気が付いた。秋の気配だろうか?

 しかし、そう思えたのは早朝のみ、辺野古に到着し、冷房の効いたバスから車外に出て歩き出すと、体中から一斉に汗が噴き出した。沖縄は11月まではまだ夏だということを思い出して、ちょっぴり期待した自分自身に苦笑い。さあ!今日も暑い、熱い一日のスタートだ。 

 早朝一回目はいつも通り少な目の座り込み。警備員の方が数は多かった。

 二回目の座り込みは、自家用車で駆け付けた人や、那覇からの2台目のバスも到着し、人数が倍に。元気が出る。

 昼食後の休憩時間に、VFPのダグラス・ラミスさんが9月28日開催予定の「反戦平和音楽祭」への参加を呼びかけた。

 

 

 

 その中で「戦争とは何か?」と問いかけ、沖縄にキャンプ・バトラーという名の基地があることの意味を説いた。

キャンプ・バトラーはスメドリー・バトラーという海兵隊で活躍した兵士の名に因んでつけられた。バトラーは16歳で志願、33年間米海兵隊に勤務した。若き日は戦闘を好み、その勇敢さで数々の勲章を授与され、最高位の少将まで昇進した。しかし、退役後反戦演説を始め、「戦争はペテン(詐欺)だ」と題する小冊子を執筆した。

 ラミスさんは言う。「戦争を『ラケット(詐欺商法)』と呼ぶのはどういう意味か?単に戦争が犯罪だというだけでなく、特定の犯罪だということを示している。銀行強盗や自動車窃盗など個別の犯罪の連続とは異なり、詐欺師たちに安定した(犯罪的な)収入をもたらすよう組織化された犯罪である。その手法は詐欺、わいろ、暴力である。例えば、麻薬取引、人身売買、みかじめ料など。後者を理解するには次のような会話を想像してほしい。『組織に毎月寄付すれば、組織があなたを守りますよ』『本当ですか?誰から守ってくれるのですか?』『組織からですよ』 ※「組織」を「アメリカ」あるいは「軍隊」と置き換えたらわかりやすいだろうか?

 「バトラーは自らの言葉に確信を持っていた。なぜなら、彼自身がそれをやって来たからだ。長年にわたりバトラーの海兵隊はキューバを始め、プエルトリコ、フィリピン、グアム、メキシコ、パナマ~他いくつもの国々に傀儡政権をつくり、『保護』をエサに飼いならした。それがアメリカ植民地帝国の始まりだった」

 ラミスさんはさらに言う。 「バトラーは沖縄に一歩も足を踏み入れたことはない。なのに沖縄の基地は総称として彼の名を冠している。なぜその名称は変わらないのか?それは、バトラーの分析がいまも沖縄の現状を最も鋭く見抜いているからではないだろうか?」 

 

 

 

 

 

 

 戦後80年、多くの国々がアメリカの傀儡を抜け出す中で、日本はず~っと傀儡政権のままであり、その弊害は沖縄に押し付けられ続けている、と私は理解した。

と 同時に、1996年ピースキャラバンでサンフランシスコの海員組合の方々と交流したとき、組合元幹部(女性)の言った言葉を思い出した。「戦争は経済です」。戦争は誰かの金儲けのために起こされると。サンフランシスコ海員組合は、アメリカが国を挙げてベトナム戦争を戦っているときに、唯一反対を貫き、ベトナムへの軍事物資の海上輸送を拒否した筋金入りの労働組合だった。

 

2025年9月18日リンクURL