「長年闘い続けていることに尊敬と感謝 」韓国の若者からのエール ~ 12月21日の辺野古

 数日前から沖縄もかなり寒くなり、最高気温が20度を割る日が続いている。いきなりやってきた寒波は、寒さにまだ慣れていない身体には、かなりつらい。雨も重なって「今日の辺野古は寒いだろうなあ」とつぶやきつつ辺野古行きの貸し切りバスに乗った。

 朝9:00の座り込みは、いつもだいたい30人前後でスタートする。メンバーもほぼ水曜日の常連たちである。 

 だが、今日はいつもとちょっと雰囲気がちがうなぁという気がしていたら、若い人の姿が、一人、二人、三人と増えてきた。 

 

 11:00は第4ゲートへ歩いて向かった。辺野古弾薬庫の入り口である第2ゲート。その向かい側の山が大きく切り崩されている。美謝川の切り替え工事の一環で、先週より傷口がかなり広がっていた。

 雨で赤土が流れ出ないように、という意味だろうか。アリバイ的に「対策してますよ」とばかり、ブルーシートが置かれていた。お為ごかしもいいところだ。 

 第4ゲートに着くと、まだ11時になっていないし、ダンプも来ていないのにすでに座り込みの排除が行われていた。「一般車両の渋滞を防ぐため、ダンプが来る前に排除する」のだそうだ。「過剰警備だ!」と抗議の声があがった。国家権力の横暴は、どんどんエスカレートする。 

 辺野古湾の沖では、雨のため土砂詰め替えの作業などがでないのであろう、台船の上に積まれた赤土混じりの土砂にはブルーシートがかけられたまま、ただ浮かんでいた。

 正午前、今日2回目の工事用ゲートでの座り込み。

 韓国から来たという若いカップル。沖縄旅行に来る前ネットで調べていて沖縄の歴史と基地問題を知ったのだという。「韓国にも米軍基地があり、韓国政府は法律を改定して、アメリカと一緒になって戦争をしようとしている。日本政府と沖縄の関係も厳しく、長い間闘い続けている沖縄の皆さんを尊敬し、感謝している。国境を越えて連帯できる方法を見つける努力をします。共に頑張りましょう!」と、沖縄の闘いにエールを送った。 

「おばぁは 君のために座り込む」と割烹着の胸に書き込み、辺野古へ通う民謡おばあぁちゃん。

 自前の携帯用マイクとスピーカで、沖縄民謡の辺野古替え歌を披露する。

 

 午後3時前、三回目の座り込み。雨は降り続いていた。  

 年の瀬も押し詰まり、辺野古ゲート前での抗議行動は、来週28日まで。いつもの水曜日メンバーが、ゲート前座り込み今年の締めくくり、しんがりを務めることになる。

 大晦日31日で座り込み日数も切れ目よく3100日となる。

 

 

 

 

2022年12月22日リンクURL

韓国からの中学生平和学習ツアーのガイドで渡嘉敷島に

 昨日(16日)は韓国からの中学生を案内して、渡嘉敷島に渡った。

 一行24人(中学生20人、引率教師1、旅行社2、ガイド1)は、当初国立青少年交流の家に一泊して、ゆっくり渡嘉敷島の自然と歴史、文化、そして沖縄戦について学ぶ予定だった。しか、天候が思わしくなく、翌日は船の運航が難しいかもしれないとの懸念から、急遽日帰りに切り替えられた。
 果たして当日は、大雨の中での厳しい行程となった。

 渡嘉敷島の戦争遺跡の多くは、奇しくも国立青少年交流の家のある北山(にしやま)に集中し、広い敷地内に点在する。中学生らは、その広い敷地内を徒歩で回ることになっていた。

 しかし、あまりの悪天候に5メートル先の視界もきかず、本来なら輝くけらまブルーの慶良間海峡に浮かぶ美しい島々の光景に、歓声を上げるはずの西展望台からは何も望むことはできなかった。

 <本来なら、西展望台から望めたはずの島々>

 ずぶぬれになりながら、やっとの思いで集団自決場の碑までたどり着いたが、説明もそこそこに切り上げて、青少年交流の家施設内の一室で、集団自決の生き残りである吉川嘉勝さんから、体験談を聞かせていただいた。(写真を撮り損ねました)

 吉川さんは当時6歳。母が子を、夫が妻を、兄が姉妹をと、愛する家族を手にかけた阿修羅の自決現場の様子、母親の転機で、自決場から逃れられた吉川さんの実体験は、中学生には大きな衝撃であったろう。

 結局、白玉の塔や日本軍本部壕、自決現場、慰安所跡などへは、大雨が収まらないため、足元不安もあって行くことを断念した。

 昼食後は、阿波連ビーチに移動し、待ちに待った海洋研修で大型カヌーに挑戦した。

 

 はじめて見るサンゴの白い砂浜・青い海に歓声を上げ、水上バイクに助けながらも自分たちで海洋に漕ぎ出し、およそ25分を漕ぎ切った。締めくくりは海に飛び込んで、大雨も寒さも10代の若さで吹き飛ばし、全身で海を楽しんだ。

  最後は彼らがこの島を訪れた目的の一つである「アリランのモニュメント」を訪ねた。モニュメントの建立には、敷地提供や陶板の制作など、島の人々も少なからず関わったことも伝えた。

 沖縄戦で大きな被害を受けながら、朝鮮半島に対しては日本人として加害性も併せ持つ沖縄の「戦争」を伝えたつもりだが、悪天候によるハプニングに加えて、通訳を介する言葉や時間的な制約などもあって、必ずしも十分な説明ができたとは言えない。感性の柔らかな彼らはどう受け止めただろうか。

 

2022年12月17日リンクURL