来年度から使用する教科書の検定結果が発表され、12社中5社の教科書から『集団自決』が消え、学徒の慰霊碑を『顕彰碑』と誤記、「戦争を美化する記述」と、関係者が抗議声明を出すなど、教科書検定で「沖縄」に関する記述でいくつかの問題点が明らかになった。
<3月31日 琉球新報 ↑ ↓>
”午後から雷雨”の天気予報を気にかけながら今日も辺野古へ向かう。
8時過ぎゲート前に着くと、テントの前にはすでにのぼりが立てられ、すぐに行動が開始できるようメッセージボードや、座り込み用の簡易イスなどが用意され、テント前のの枯れ葉を掃き清めている人がいる。
誰が何をすると役割が決まっているわけではなく、責任があるわけでもない。みんなが自分にできることを、出来るときに、出来るところで自発的にやっていて、それで辺野古の市民運動が成り立っている。
ゲートに直接座り込むだけでなく、道路向かいでも、それぞれのやり方(スタイル)で抗議を行う。道行く車に手を振る人、メッセージボードをかざす人、鼓を響かせながら平和を祈る人と様々、機動隊と対峙するだけが抗議行動ではない。
過積載のダンプが相変わらず横行。ただ今日はミキサー車が最初に入った3台だけでダンプの数も少なく、一回目の抗議行動は、いつもの半分くらいの時間で終わった。
名護市議会議員の大城敬人さんが、3月定例議会で「戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないよう」求める意見書を、全会一致で可決したと報告。保守議員も含め、全会一致にするための苦労話を語った。
意見書は、遺骨混じり土砂を埋め立てに使うことは「戦没者を冒涜し、人間の心を失ったものであり、断じて受け入れることはできない。また、戦争につながる一切の行為を否定し、”平和を求める沖縄の心”に反するものである」として、政府に対し、「遺骨が混じっている可能性のある土砂を使用しないこと、日本政府が主体となって戦没者の遺骨収集を実施することを強く求める」としている。
水曜日のゲート前名物「辺野古少年少女合唱団」。美しい歌声が響いている間は、機動隊も手が出せない。歌うことも大切な抵抗のツールである。
今日は年度末ということもあるのか、ダンプの数がいつもの三分の一程度しかなく、拍子抜けの感もあった。
明日4月1日は、76年前 米軍が沖縄本島に上陸した日。ここから3カ月余にわたる住民を巻き込んだ熾烈な地上戦が始まる。体験者にとっては、トラウマに襲われ、息苦しい日々が続く。
沖縄戦の忌まわしい記憶は、たとえ何年経とうとも癒えることはない。渡嘉敷島は、28日、「集団自決」から76年目のその日を迎えた。
昨年に続いて、コロナ禍で村主催の合同慰霊祭は中止されたが、多くの村民や遺族が、それぞれに訪れ、線香を手向けたという。
<3月29日 琉球新報 ↑>
現在の白玉の塔( 戦争犠牲者を祀る)
「集団自決地」の碑:当初の白玉の塔は、この地に建てられた。1960年周辺が米軍基地に接収されたため移転を余儀なくされ、62年に現在地に建立された。
ケラマブルーに染まる慶良間海峡。米軍は、1945年4月1日の沖縄本島上陸を前に、3月26、27日慶良間諸島に上陸。この青く美しい海が真っ黒になるほど、無数の軍艦で埋め尽くされたと体験者は語る。
現在はくじら海峡と呼ばれ、ホエールウォッチングや世界有数の透明度を誇るダイビングのメッカとして知られるこの海が、かつて地獄の海と化した歴史は、決して忘れてはならない。