完成不可能な工事はやめよ! ~ 12月25日の安和

 25日は、早朝7:00発のバスで安和に向かった。コロナ騒動が始まってから安和には行けていない私にとっては、7カ月ぶりの安和である。

 8:30に安和到着。すでに運搬船への土砂積み込み作業が始まっている。

 この日は波が高く、カヌーや抗議船の海上行動はなかったが、十数隻の監視船が、ただ波間に浮かんでいた。何たる税金の無駄遣い。 

 

 

 

 

 

 ダンプの出入口では、本部島ぐるみの人たちが、早朝から寒い中を監視活動を開始していた。

 入り口では、赤土を満載したダンプが長蛇の列。早速抗議行動に入る。

 抗議行動!と言っても、入ってくるダンプに対して、信号に従ってゲート前をゆっくり歩くだけだ。ただひたすら歩き続けるだけで、信号が変わるたびに港の中には一台しか入れない。順法闘争である。

 辺野古のゲート前のように一日3回の搬入で合間に休憩時間があるのとは大違い。幅10メートルほどのゲートの前をぐるぐる歩くだけとはいえ、結構疲れる。(夕方帰宅して万歩計を見ると、12,201歩をカウントしていた)。

 それぞれ各自の判断で適宜水分補給と10分ほどの休息をとる。午前中に1度だけ、那覇からの2台めのバスが到着したところで交代して、早朝組はバスで本部港のターミナルでトイレ休憩を行うことになった。

 

 

 

 

 

 本部港へ向かう途中、山肌を無残に削り取られた琉球セメント安和鉱山の姿が目に入ってくる。

 

 

 

 

 

 

 本来セメン製品の積出しかできないはずの安和桟橋を、目的外使用で違法に辺野古埋め立ての赤土を積出している琉球セメントに怒りを感じる。

 辺野古新基地建設は、絵にかいたような利権の塊である。琉球セメントのバックに隠れているのがこれらの大和企業。宇部=安倍、三菱=麻生。(2020年、琉球セメントの親会社である宇部興産と、麻生グループの三菱マテリアルのセメント事業が統合してできた新会社。正式には21年4月発足のようだが、沖縄ではすでに稼働しているのか?)

 

 

 

 

 その対極にあるのが自然の中で無心に咲く野の花々。

 そして、この青い海。宝の海・生命の森を、これ以上穢させてはならない。

 まだ、ダンプの土砂搬入は続いていたが、帰途1時間半以上かかる那覇からの参加者は、15:30安和を後にした。 

 辺野古の抗議行動、全体的には28日まで行われるが、平和市民連絡会の担当日(水・金)は、この日で今年の締めくくり。朝から一緒に参加していた山城博治さんの提案で、打ち上げの写真を撮りました。今年も一年間、お疲れ様でした。

 

 

 

2020年12月26日リンクURL

サンタは戦車に乗ってやってくる! ~ 今日(12月23日)の辺野古

 辺野古の行動も、今年は今日を含めても余すところ後4日、水曜日は今日が最後となる。

 7時に那覇を出るときは、風もなく暖かだったが、辺野古は少しひんやりする。風も強い。

 明日からのクリスマス休暇に備えてか米軍は忙しそう。早朝から戦闘車両の出入りが激しい。

 空の方も騒がしい。2機のヘリが上空を何度も旋回している。日本政府のお偉方でも視察に来ているのか?それとも単なる訓練か?午前中飛び回っていた。

 

 朝は、30人ほどの少人数で座り込んだ。

 昨日は、ここで80代の女性が拘束された。立ち上がるときに、機動隊が腕をつかんだので「触らないで!」と振り払った拍子に、手に持っていたメッセージボードが、機動隊の肩に当たったという。それが「公妨(公務執行妨害)」とされたのだ。これが彼らの常套手段。拘束ありきの恣意的なやり口である。 

 一回目の座り込みが終わりテントに戻ってくると、いつもの差し入れが待っている。水曜日だけの楽しみ、である。 

 明日はクリスマス・イブ。米軍基地にもサンタさんはやってくる。ただし、乗ってくるのはトナカイが引くソリ🛷ではなく、戦闘車両に乗ってやってくる。(サンタさんの本意ではないだろうな)

 

 

 私は午後から別日程があり、2回目12:00の座り込みを前に、ゲート前を退出した。

 朝、那覇から一緒にバスで来た他のメンバーは、終了後に、先日拘束された女性が拘留されている沖縄署前で、仲間への激励と警察への抗議を行うことになっている。

 

 

 

2020年12月23日リンクURL

コザ騒動から50年 ~ 沖縄への差別・抑圧 何も変わっていない

 今年は、沖縄にとって歴史的な様々な出来事が節目を迎えた重要な年だった。沖縄戦から75年、少女暴行事件から25年、日本軍「慰安婦」問題で昭和天皇に有罪判決を下した国際女性戦犯法廷から20年など。そのほとんどがコロナ禍で記憶を振り返る催しが行えないまま1年が終わろうとしている。

 そして今日12月20日は、「コザ騒動」から50年の節目の日だ。私自身にとっても忘れられない出来事となっている。

 事件は、基地の街コザ(現沖縄市)で飲酒運転の米兵が起こした交通事故の処理を巡って、怒った市民らが米軍車両を次々ひっくり返し焼き討ちにした民衆蜂起である。後に「コザ騒動」と呼ばれた。

 騒動が起こった背景には、この年の9月、糸満市で、やはり飲酒運転の米兵が沖縄の女性を轢殺、しかし加害者の米兵は裁判で無罪放免となった。いつものことだ。(米兵が強姦殺人事件を犯し捕まっても、裁判で無罪になる事件が相次いでいた)

 コザの事故現場に居合わせ市民らが、事故処理当たっていた軍警に対して「また糸満のときと同じことになるのではないか!」と騒ぎだしたことが発端だった。それが導火線となって、戦後ずっと続いてきた米軍の圧政に対する鬱積した怒りに引火、爆発したのだ。

 当時私は地元ラジオ局の報道部に勤務。前夜仕事があがって、行きつけの割烹で同僚の記者仲間たちと酒を飲んでいた。そこへ、「コザで大変なことが起こっている」との情報が入る。時計はとっくに日付が変わり、同僚たちは未明の暗闇の中を現場へすっ飛んで行った。私は「危ないから、女はダメだ!」と、一人置いて行かれた。(そんな時代だった)

 ラジオ局の報道は「音」が命。私たちは「まず音を録れ!」と、先輩たちから骨の髄まで叩き込まれてきた。同僚記者が現場で必死にマイクを向けた録音機には、人々の「魂の叫び声」が詰まっていた。「沖縄のこの25年間の犠牲。何万という人が死んでいて、沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人は人間じゃないのか、ばかやろう。この沖縄人の涙を分かるのか!」。1人の青年が、記者の持っていた録音機のマイクを奪い取り、叫んだという。(マイクがスピーカーに繋がっていると思ったのではないか?)

 この「音(声)」は節目の日のニュース番組でよく使われてきた。NHKでもたまにこの「音」が流れる。

 当時、沖縄のメディアは新聞、放送を問わず、ライバルというよりマスコミ人としての仲間意識が強かった。今では考えられないことだが、他社ともよく「音」や「映像」の貸し借りや、情報提供をしあっていた。そこには何より真実を伝える、本土へ沖縄の状況を知らしめるという沖縄の報道人としての使命感があった。この音を録った同僚も気軽にNHK(当時はOHK)に音を提供したのだ。

 沖縄出身の芥川賞作家・東峰夫の小説を原作に、やはり沖縄出身の新城卓監督が製作した映画「オキナワの少年」でもこの音が使われている。だが、「音」のキャプションには「NHK提供」となっており、驚いた。間違いは正されなければならない。

 あれから50年。沖縄の米軍基地をめぐる状況はちっとも変わっていない。いや、むしろひどくなっている。本土復帰によって米軍に日本政府が加わった圧政が50年積み重なってひどくなるばかりだ。

 辺野古ゲート前に座り込んでいると、ときどき言いようのない怒りが込み上げてくることがある。それは私だけではないだろう。いまの沖縄は、いつまたコザ騒動のようなことが起こっても不思議ではない。

 

※ 「コザ騒動」「コザ暴動」と、二つの言い方がされる。当時の沖縄の報道各社は「暴動」ではなく、「騒動」することに、話し合って決めた。車の焼き討ちは見境なくやったのではなく、米軍車両だけが炎上した。(しかも同じように差別されている黒人所有のくるまも手をつけなかった)。商店街の店に乱入して略奪するようなことも全くなかった、ということから、いわゆる「暴動」ではなく、「騒動」としたのである。それは現在も大方踏襲されている。誰かリーダーがいたわけでもないのに、見事に統率がとれていたと言われている。

 一方で、「騒動」では「沖縄の怒りが伝わらない」として、こだわって「コザ暴動」と表現する人たちもいる。

※ 写真は『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

 

 

 

 
 

 

2020年12月21日リンクURL