復帰50年県民大会 オンライン開催 ~ 屋良建議書は実現されたか?

 復帰50年を問う県民大会が、きのう(30日)オンラインで開催された。県議会与党会派を中心とする実行委員会の主催で行われたもので、コロナ禍とはいえ、重要な時期であり、県民全体が参加できるリアルな県民大会を開くべきだという声も少なくない。

 

 <↑ ↓ 5月1日 琉球新報>

 

 登壇した若い復帰世代の代表からは「本当に復帰して良かったのか?」「復帰しか道はなかったのか?」という問いとともに、「先人たちの思いは私たちが受け継ぎ、平和な沖縄実現を目指す」との決意が語られた。

2022年5月1日リンクURL

4・28 屈辱の日に また屈辱を重ねる日本政府 ~ 辺野古不承認に是正指示

 「屈辱の日」。戦争に負け米国の占領下におかれたニッポンが、沖縄を人質として米国に渡すことで、再び独立国になれた1952年4月28日以来、沖縄の人々は4月28日をそう呼ぶ。

 海上集会で互いに手を振り合う国頭村側からの船(奥)と与論町側からの船(手前) =28日午前11時53分、北緯27度線付近(小川昌宏撮影)

 

【国頭・与論】沖縄や奄美群島が日本から切り離された、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効から28日で70年となった。72年の復帰まで米統治下に置かれた沖縄と本土側の隔絶を象徴する北緯27度線付近で、国頭村と鹿児島県与論町は28日、沖縄の復帰を求めた海上集会を再現した。
 今年は復帰50年の節目。記念行進や式典なども行い、分断の歴史を後世に語り継ぐことを確認した。海上集会には約140人が参加し、計21隻出港した。参加者は「両町村の『心の絆』を継承し、交流を深める」と宣言文を読み上げた。海上集会は1963年~69年に沖縄側と先に復帰を果たした与論町側の関係者が開催した。2012年に一度再現して今回10年ぶりに開催した。(長嶺晃太朗まとめ)   

 <4月29日 琉球新報記事  ↑>

 70年目の 「屈辱の日」だった昨日(4月28日)、政府は沖縄県に対し、「辺野古の設計変更を認めろ!」と命令を下した。

<4月29日 琉球新報↑↓>

 政府のやることに異議を唱えると「言うとおりにしろ!」と命令を下す。これでは地方自治は国の下請け機関でしかない。先日は、辺野古新基地に反対する住民の訴えも、裁判で門前払いにされた。政府の名のもとにどんな理不尽もまかり通るこの国では、不都合なこと・ものは、常に力の弱いところにおしつけられる。

 6年前、元米兵によって殺害され遺体を遺棄された女性の性暴力事件も、この「屈辱の日」に起きた。積み重ねられる屈辱は、このままではこれからも続く。権力は常に「強さに拠り、弱気をないがしろにする」。弱小国民が救われる道はあるのか?

 

 

2022年4月29日リンクURL

辺野古住民訴訟判決にワジワジー(怒り)! ~ 4月27日の辺野古

 白い「いじゅ」や「崑崙花」「クチナシ」に、黄色のソウシジュなど、うりずん(初夏)の花々が咲き競うやんばる路を辺野古に向かう。

 車中の話題は前日の辺野古住民訴訟の判決。同種の裁判では国家権力に阿る司法に、沖縄の魂の叫びはことごとく「門前払い」されてきた。 

 門前払いの理由は「原告適格、辺野古に新たな基地が出来ても原告の4人は何の被害も受けない。よって訴える資格がない」というもの。原告資格を認めてこれまでの裁判を進めてきた3人の裁判官は、この3月で移動になり、判決は新たに担当になった裁判長の下で出された。

 同じ裁判で、一度認めた原告適格が覆されるのは異例だという。意図的な移動だったのでは?という声も聞かれる。判決直前に裁判長が代わるという同じような例は、沖縄の裁判で前にもあったからだ。

 ゲート前の座り込みで、原告のひとり金城さんは、「司法は死んだ」と嘆き、「でも、私たちは、あきらめずに新たな裁判を闘う」と決意を語った。 

 復帰から50年がたっても、まともな国民として扱われず、侵害され続ける沖縄の基本的人権、暮らし、そして命。沖縄だけではない全国各地で、国家権力による様々な問題が噴出している状況に歯止めがかからない。日本はどうしてこんな無残な国になってしまったのだろうか考えると、目がさえて眠れないことが多い。 

 

 目の前を爆走する米軍の戦闘車両。今日はやたらと目についた。

  

 お口直しに「辺野古の花たち」です。イジュ、デイゴ、テッポウユリ

   

月見草、ソウシジュ、テッポウユリ 

 

 伊芸サービスエリアの月見草

 

2022年4月28日リンクURL