戦後70年の慰霊の日 ②~みるく世がやゆら

慰霊の日の「沖縄全戦没者追悼式」では、毎年県内の小中高校生から「平和の詩」を公募、朗読する。

今年は、与勝高校3年生の知念捷君の詩が選ばれ、5400人の前で「みるく世がやゆら(いま世は平和なのでしょうか?)」と問いかけた。

 

<みるく世(ゆ)がやゆら>

平和の詩を朗読する 知念捷君

平和の詩を朗読する
知念捷君

 

平和を願った 古(いにしえ)の琉球人が詠んだ琉歌(りゅうか)が 私へ訴える

「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世ややがて 嘆(なじ)くなよ臣下 命(ぬち)ど宝」

七〇年前のあの日と同じように

今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終(おわ)りを告げる

七〇年目の慰霊の日

大地の恵みを受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を

夏至南風(かーちーべー)の 湿った潮風が吹き抜ける

せみの声は微(かす)かに 風の中へと消えてゆく

クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます

みるく世がやゆら

「今は平和でしょうか」と 私は風に問う

花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉

戦後七〇年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた 祖父の姉

九十才を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥(おうが)する

一九四五年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った

一人 妻と乳飲み子を残し 二十二才の若い死

南部の戦跡へと 礎へと

夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探しまわった

彼女のもとには 戦死を報(しら)せる紙一枚

亀甲墓に納められた骨壺(こつつぼ)には 彼女が拾った小さな石

戦後七〇年を前にして 彼女は認知症を患った

愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を

すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして 彼女は歌う

愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように

あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと

軍人節の歌に込め 何十回 何百回と

次第に途切れ途切れになる 彼女の歌声

無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消してゆく

七〇年の時を経て 彼女の哀(かな)しみが 刻まれた頬(ほお)を涙がつたう

蒼天(そうてん)に飛び立つ鳩(はと)を 平和の象徴というのなら

彼女が戦争の惨めさと 戦争の風化の現状を 私へ物語る

みるく世がやゆら

彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が

刻まれた礎に 私は問う

みるく世がやゆら

頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい

六月二十三日の世界に 私は問う

みるく世がやゆら

戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う

気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい

しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを

伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを

みるく世がやゆら

せみよ 大きく鳴け 思うがままに

クワディーサーよ 大きく育て 燦燦(さんさん)と注ぐ光を浴びて

古のあの琉歌(うた)よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ

今が平和で これからも平和であり続けるために

みるく世がやゆら

潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心に留める

みるく世の素晴らしさを 未来へと繋(つな)ぐ

2015年6月24日リンクURL

戦後70年の慰霊の日 ②~国際反戦沖縄集会

沖縄戦では20万人余が犠牲になった。当時の沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになる。

沖縄戦最後の激戦地となった糸満市の摩文仁には、平和の礎をはじめ各県の慰霊碑が建ち並ぶが、「沖縄県の碑」と名のつく慰霊塔だけはどこにもない。
ここ「魂魄の塔」が、その役割を果たしている。

魂魄の塔

魂魄の塔

戦後、累々と野ざらしになっていた戦没者の遺骨を拾い集めて祀ったのが、この「魂魄の塔」である。戦争で亡くなった家族の遺骨が見つからなかったり、どこで死んだのかわからない遺族は、ここへお参りに来る。DVC00060.JPG

今年も早朝から夕方日が落ちるまで、線香の煙が絶えることがなかった。
今年は特に子どもたちを伴った家族連れが目立ったのは、私の気のせいばかりではないようだ。

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市民グループは、毎年、県主催の追悼式とは別に「魂魄の塔」の前で国際反戦沖縄集会を開く。

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辺野古から、高江から、泡瀬干潟から、フクシマから、韓国から、アメリカから、志を同じくする市民のネットワークを繋げ広げる集会となる。

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琉球讃歌と空手踊り

三線とうちなぁぐちで

 

 

 

 

例年、歌あり、踊りあり、メッセージありとにぎやかだが、特に今年は戦後70年の節目の年とあって、反戦・平和への誓いも新たに、盛り上がりのある集会となった。

フクシマから

フクシマから

2015年6月24日リンクURL

戦後70年の慰霊の日①~知事 平和宣言

県主催全戦没者追悼式(琉球新報より)

県主催全戦没者追悼式で黙祷を捧げる参加者(琉球新報より)

 

6月23日、沖縄戦の終戦の日。安倍総理大臣、衆参議長、ケネディ・アメリカ大使も出席して、沖縄県主催の全戦没者追悼式(5400人が参加)が行われた。

地元紙が伝えるところによると、翁長知事はじめ遺族会代表など沖縄側の発言者がすべて、辺野古新基地建設反対を盛り込んだ挨拶を述べ参列者の間から拍手が起こる一方で、沖縄戦の悲惨さを言葉だけで言いつくろう安倍総理に、参列者から「戦争屋!帰れ!」の声が飛び交ったという。

例年、厳かに行われる慰霊祭で、拍手や怒りの声があがることは違例で、積もり積もった県民の怒りが強く現れた追悼式となった。

24日 琉球新報

24日 琉球新報

 

 

<知事平和宣言 全文>

70年目の6月23日を迎えました。

私たちの郷土沖縄では、かつて、史上まれに見る熾(し)烈(れつ)な地上戦が行われました。20万人余りの尊い命が犠牲となり、家族や友人など愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。

それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。

戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。

しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発にさまざまな影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合がわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。

沖縄の米軍基地問題は、わが国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。

特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。

そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。

国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎(いしずえ)を築くことはできないのです。

政府においては、固定観念に縛られず、普天間飛行場を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。

一方、私たちを取り巻く世界情勢は、地域紛争やテロ、差別や貧困がもととなり、多くの人が命を落としたり、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなど悲劇が今なお繰り返されています。

このような現実にしっかりと向き合い、平和を脅かすさまざまな問題を解決するには、一人一人が積極的に平和を求める強い意志を持つことが重要であります。

戦後70年を迎え、アジアの国々をつなぐ架け橋として活躍した先人たちの「万国津梁」の精神を胸に刻み、これからも私たちは、アジア・太平洋地域の発展と、平和の実現に向けて努力してまいります。

未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを創りあげ、時を超えて、いつまでも子どもたちの笑顔が絶えない豊かな沖縄を目指します。

慰霊の日に当たり、戦没者のみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、沖縄が恒久平和の発信地として輝かしい未来の構築に向けて、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。

2015年6月23日

沖縄県知事 翁長雄志

2015年6月24日リンクURL