4月15日の辺野古~恐ろしい世の中になってきた!

今日から新しい横断幕が張り出された。3月31日で前知事が出した「岩礁破砕許可」は期限切れで失効し、4月1日以降、国は違法工事を行っている。

集中行動日で、今日も200人近い人たちが座り込んだので、3時まで工事車両は入らなかった。

 

 

 

 

 

今日も県内外から多彩な人たちが参加。彼女は沖縄出身だが結婚して、現在は北海道在住。人一倍沖縄に関心を持ち、新聞に沖縄関連の記事が載れば必ず読んで、最近の状況も把握しているつもりだったという。

「久しぶりに里帰りし、ここ数日辺野古へ通って、沖縄についていかに”何も知らなかったか”を思い知らされた。どんなに沖縄に関心を持つていてもメディアが伝えることには限界がある。現地に来て直接見聞きしなければ本当のことは何も伝わってこないと痛切に感じた」と語った。

<恐ろしいい世の中になってきた>

 京都から参加した男性。定年してから13年間、どこへ行くにもこのプラカードを持っていく。裏には「アカン 原発」と書いてある。特にかざしてアピールするということはしない。ただ手にもって出歩く、電車に乗る、というだけ。これまで振り返る人はいても、誰からもとがめられることはなかった。

しかし、先週、京都から新幹線に乗り、生まれ育った故郷へ行くため新神戸の駅で降りたところ警官がすっ飛んできた。「そのプラカードを片付けろ!」と言われた。「関係ない」と無視して改札を出たとたんに、十人ほどの男に取り囲まれた。無理やりプラカードをとりあげられたという。

安保法が成立し、国会で審議中の共謀罪が先取りされて、監視社会・警察国家・治安維持法下の戦前に回帰しているのを肌で感じ恐ろしくなった」と語った。

 

 

 

 

 

これまでは金網の向こうからこっそりと、座り込む市民にカメラを向け、人々の話をメモっていた軍警。この頃は座り込みテントのすぐ前で、堂々と聞き耳を立てている。

 

<元気づく右翼~阿部総理がついているもんネ>     座り込んでいる市民の列に向かって突っ込んでくる右翼の街宣カー。さすがの県警も慌てて規制した。

 

 

これまで、日の丸と星条旗を掲げていたのに、なぜだか、星条旗が消え、日の丸と沖縄県旗になっていた。さすがにトランプのアメリカではまずいのかな?

 

 

新基地に反対してゲート前に座り込む人々の思いはただ一つ。子どもや孫たちの世代にまで、戦争の道具・基地を残したくない。それが悲惨な戦争を体験した現世代の責任だから。

しかし、悔しいかな権力の力は圧倒的。力づくで座り込む人々を排除し、檻の中に閉じ込めて、工事車両を基地の中に招き入れる。集会が終了する3時直前に工事車両の車列が向かっているとの情報が入り、集会を4時まで伸ばしたが、40分間の攻防の末、結局はごぼう抜きされて埋め立て資材を積んだ14台のトラックに入られてしまった。

しかし、負けない方法…勝つまでずっとあきらめないこと。 

 

 

 

 

また明日も頑張る!!!

不屈の座り込み1014日目の辺野古ゲート前から。

2017年4月15日リンクURL

北島角子さんを悼む

ありがとう!北島角子さん

沖縄の一時代を創ってきた大先輩が、また一人亡くなられた。北島角子さん(享年85歳)。沖縄演劇界で本格的に“女優”と呼ばれた初めての人だったのではないかと、私は思う。

北島さんとの出会いは、もう40年近くも前、1981年北島さんが、一人芝居「島口説」で文化庁の芸術祭優秀賞を受賞したとき、東京のある機関誌からインタビー記事の依頼を受けた。取材のため開演前の楽屋に伺ったのが、直接お会いするきっかけだった。

1985年、勤めていた放送局のイベント企画「うないフェスティバル」の一環として、北島さんに一人芝居を演じていただいたことで、さらにご縁が深まった。

      <1985年 うないフェスティバルで記念講演の沢地久枝さんと、北島角子さん>

うないフェスティバルは、日ごろ家庭的にも社会的にも重い役割を担いながら、陰の存在に甘んじている女性たちを表舞台に引っ張りだそうという、「国際婦人(女性)年」に触発された沖縄の女性たちが企画した一大イベントだった。それぞれの分野ですでに表舞台で活躍している女性たちに旗印になってもらった。そのお一人が北島さんでした。

うないフェスティバルで「島口説」を上演したいとお願いに行ったところ、厳しい返事が返ってきた。「芝居がどんなにお金がかかる仕事かわかっているか?」と。「出演するのは私一人だけど、裏でどれだけ大勢の人たちが動き、どれだけ大掛かりな装置が必要か、準備に膨大な時間がかかる。それを全部引き受ける覚悟はあるのか?」ということだった。さらに著作権や上演権の問題などクリアしなければならない問題が山ほどあった。自分の浅はかさが恥ずかしかった。

しかし、人生の先輩でもある北島さんは、経験の足りない若造の出鼻をくじくだけで終わらせることはしなかった。「ヌーガ(なんで)人の作品に頼るか?しかも男が作ったものに。女たちの祭りなんでしょ!自分たちで作りなさい。アンヤレー ンジイサ(それなら、出演するよ)」。ごもっともなお叱りだった。

その結果生まれたのが、後に北島さんの持ち芸となった一人芝居・「赤いブクブクー」「いのち」「にほんじん?」などのうない口説シリーズである。うないフェスティバル実行委員会メンバーの一人、座間味島出身の女性史家・宮城晴美さんが、集団自決の生き残りである祖母・母親の戦争体験を基に脚本を書き、北島さんがうちなぁぐちに直して演じた。原作があるとはいうものの、北島さんでなければ作り上げられない独特な持ち味の作品であることは確かである。

               <うない口説「赤いぶくぶくー」を演じる北島さん>

ハンバーガーを“シシクートールパン(肉をくわえたパン)”と表現し、私たちを抱腹絶倒させた。今でもときどき思い出し笑いをしてしまう。普通、芝居で老人を演じるときは腰を曲げて杖をつく。しかし沖縄オバーは逆に腰を反らす。確かに、沖縄では腰の曲がったお年寄りはあまり見かけない。それは寒いところと暖かいところの違いだと、北島さんは教えてくれた。なるほど!鋭い観察眼である。


北島さんには、仕事人として、うちなーんちゅとして、女性としてたくさんのことを教えていただきました。ありがとうございました。頑固に沖縄を愛し、平和を願って活動してきた北島さん。その根っこにはやはりご自身の戦争体験がありました。我が子や孫の世代にあの辛い体験はさせたくない。だから基地の島沖縄を「平和の島」に変えたい。それは辺野古、高江の座り込みに来られる高齢の方々(戦争体験者)に共通する思いでもです。

残された私たち戦後世代はその尊い遺志を受け継ぎ、これからもうひと頑張りしたいと思います。いつか北島さんに再会したとき「シタイ!ユーチバテーサ(がんばったね」と言ってもらえるように。どうぞこれからも叱咤激励してくださいね。
北島さんに会えないのは寂しいですが、魂の故郷へ帰られるのですから、悲しみません。さよならも言いません。アンシェー、マタヤータイ(それでは また会う日まで!)

2017年4月13日リンクURL

今日(4月8日)の辺野古~この人だ~れ?

タイトルについての写真・コメントは最後のお楽しみに!していただくとして、今日は6:00那覇出発の平和市民連絡会のバスで行ったので、7:00過ぎに到着すると、メインゲートでは、基地の中に入る作業員の車を止め、美ら海の破壊行為に加担しないよう説得する行動が、すでに始まっていた。

土曜日は議員集中行動日なので、いつもの通り、県議はじめ各市町村の議員さんたちがたくさん参加した。

今、うるま市長選挙を間近に控えているので、議員さんたちは早朝に来て、9時ごろにはほとんどが退散。あとは各島ぐるみ会議や、市町村会議の皆さんが、夕方まで頑張った。

土曜日は、那覇、沖縄市、豊見城、うるま市、糸満市、名護、宜野座などの島ぐるみ、市町村会議の皆さんがやってくる。

特に、共同代表の村長はじめ、村議会婦人会、老人会など村内の主だった団体・組織がメンバーという中城村民会義は、今日も村議会議長、副議長を筆頭に議員、村民10名が参加。名実ともに村ぐるみの実に見事なチームワーク。頼もしい!、素晴らしい!うらやましい!

と、言うことでピーク座り込みは時200人を超した。

今日は11時から、トランプ大統領の排外政策に抗して全米で女性たちがデモ行進した際に歌われて世界中に広がったという「I Can’t Keep quiet」を、ネットを通してさらに世界へ広げようというイベントに、辺野古ゲート前も参加することになり、10時半から練習して歌を覚え、11時から大合唱で参加した。

                                                <歌詞です>

プラカードを大きく掲げながら歌った。安倍政権の圧政にあえぐ日本にもにも通じる歌詞である。

今日、座り込みの参加者が持ってきたプラカートの一つ。これがとても目立っていた。さて、この人は誰でしょう?ヒトラーみたいでもあるけど…。でもどこか違う!

因みに、裏はこの文言です。

不屈の 座り込み1007日目の辺野古。延べ300人が集まり、工事車両は一台も入れませんでした。

 

 

2017年4月8日リンクURL