「橋下市長!私が証人です」~金福童(キムボットン)ハルモニが証言

一昨日(18日)、
韓国から金福童さんを沖縄に迎えて「ハルモニとの交流集会~こころで感じる「慰安婦」問題~という集いを開催した。

証言する金福童ハルモニ

証言する金福童ハルモニ

開口一番、橋本発言に対して、「慰安婦」は必要だったと言うだけで謝罪もしないのは人間ではない。
証拠はないというが、この私が、何よりの証拠です。
私は苦しみながらも、いま生きて、ここにいる。これ以上の証拠がどこにあるのか!」

いつもは物静かで、笑顔の優しい福童ハルモニの表情が
一瞬険しくなり、細い手が机を叩く。
目には涙がにじんでいた。

一緒に登壇した挺対協代表のユン・ミヒャンさんは「福童ハルモニは世界中を回って証言をしており、1000回続いている韓国日本大使館前での水曜デモでもいつも先頭に立って、若い人たちに未来を感じさせる話をしてくれる。どんな辛い話でも決して涙を見せたことがなかった」と語った。

その福童ハルモニが見せた涙だった。

この私が何よりの証拠です

この私が何よりの証拠です

慰安婦にされ地獄の苦しみを味わってきた
自分をはじめ多くの朝鮮半島の女性たちが
未だに苦しみ続けているというのに

日本の国の政治家たちの、謝罪するどころか、
まるで存在しなかったかのような発言に
吹き出す悔しさと怒りの涙ではないだろうか。

金福童さんは15歳のとき、旧日本軍に「挺身隊として日本の縫製工場で働け。
さもなくば母親を反逆罪で捕まえる」と脅され、狩り出された。
しかし行った先は日本ではなく、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシアなど
戦場の最前線で8年間、慰安婦として従軍させられた。

平日は14~15人、
土曜、日曜ともなると、朝8時から夜10時まで
それこそベッドからいっときも起き上がることも許されない状態で
50~60人もの日本兵の相手をさせられたという。
想像を絶する。

戦争が終わり、故郷・韓国に帰ったときは22歳になっていた。
別れたときは14歳。「再会した母は大人になった私の顔ががわからなかった」という。

この集会は橋本発言があったので企画されたのではない。

会場を埋めた若者たち

会場を埋めた若者たち

「慰安婦」問題をテーマにした集会などは右翼などの妨害にあうので
今回も、事前のPRは信頼できる友人・知人宛の、極限られた人たちにメールで知らせ、少数で心の通い合う交流集会にしようという計画だった

しかし、図らずも橋本発言のせいで、多くの関心が集まり、クチコミで特に若い人たちが会場にあふれた。

金さんは、24日、もう一人のハルモニ・吉元玉さんとともに
橋本市長に面会することになっている。

橋本氏に会ったら、
「必要というのなら、自分の妻や娘を(慰安婦)として差し出せるのか?」と
質したいという。

果たして、橋本氏は何とこたえるだろうか。

2013年5月20日リンクURL