身体は不自由でも死ぬまでここに通う ~ 3月4日さんしんの日の辺野古

 3月4日は「さんしんの日」、県内各地をはじめ、全国、世界の三線愛好家たちが正午の時報に合わせて一斉に「かじゃで風」を生で演奏し、踊る取り組みが30年以上続いている。

 ここ辺野古ゲート前でも毎年演奏と踊りで「さんしんの日」の催しが行われてきたが、今年は新型コロナ騒ぎで、直前で中止となった。

多くの人たちが残念な思いを抱きながら、仕方がないとあきらめ、いつも通りの座り込みで、今日のゲート前行動がスタートした。

 9:00、一回目のトラックの行列が押し寄せ、機動隊の排除が始まろうとした寸前、この日も最前列に車いすで座り込んだ島袋文子さんが「機動隊に一言いいたいことがある」とマイクを握った。

 先週の金曜日、機動隊の強引な強制排除を受けて文子さんは、膝や腕、背中に打撲を負い、病院通いを余儀なくされたという。「私は、身体の不自由だけでなく、心臓も弱く、あのような状況の中でもし私に何かあったら、あなたたちはどう責任をとるつもりか!私は身体は不自由でも、死ぬまでここに通う。何故だと思う?あなた方の子や孫を、二度と(戦争で)無駄死にさせたくない。私は沖縄戦で、たくさんの無残な死を見てきたから」。気魄に満ちた文子さんのことばを機動隊の若者たちは、身じろぎもせず聞いていた。 

 基地内に入る工事車両、今週になってコンクリートミキサーの数が極端に減って、重機材や砂利、砂などを積んだダンプが多くなっているという。一回目の搬入では50台の工事車両が入った。

 一回目の搬入後の休憩時間には、「沖縄に米軍基地を造らせない大阪9条の会」を一人で立ち上げ、署名活動を始めたという男性があいさつした。

 同じく大阪から参加した3人の大学生。「自分たちは昨日と今日だけの座り込みだが、もう何年も継続して闘っている沖縄の皆さんはすごいと思った」「昨日は道路の向かいから見ていた。今日は皆さんと一緒に座り込むことができた。機動隊に排除されたときはちょっと痛かったけど、また来たい。今日ここで感じたことを持って帰り、他の人にも伝えて、今度来るときはもっとたくさんで来たい」「釜ヶ崎で路上生活者の人たちが排除されるのを見ることもよくあるが、特に何かを感じることはなかった。今日はじめて排除される側になって、とても怖かった。でも、機動隊の人たちと話してみたら、半分くらいの人が、”デニーさんを支持している”ようだった」と、それぞれに素直な感想を語った。

 正午前、二度目の搬入に備えての座り込み。つい一週間前まで、この日はサンシンの日の行事は行われる予定だったが、新型コロナ騒動で自粛を余儀なくされた。しかし、「コロナなんかに負けてたまるか!」と誰かが言い出し、何の用意もなかったが、急遽「みんなでかじゃで風を踊ろう」ということになった。歌・三線はスマホから、舞扇の代わりに「辺野古NO!」のプラカードを手に、にわか仕込みのかじゃで風を踊った。大阪からの3人の大学生も、みんなに促されて見よう見まねで踊った。 

 座り込みのリーダーが、「これからサンシンの日のかじゃで風を踊るから、踊り終わるまで、排除はしないでください」と、機動隊の指揮官に伝えた。

 音楽が鳴りだしたとき、思いがけないことが起こった。座り込む人たちの前に立ちはだかるように整列していた機動隊が全員ひっこみ、踊りのスペースを空けたのだ。人々の間から、思わず拍手が起こった。

<踊りため両端に退いた機動隊:↑3枚の写真提供Yさん>

 踊りが終わって、座り込みのリーダーが「さすが、うちなぁんちゅ!ありがとう」と礼を言うと「後で叱られるかもしれないけど…」と機動隊の指揮官はつぶやくように言ったという。

 

 しかし、踊りが終わると、容赦なく排除が始まった。

 彼らは機動隊としての仕事をしっかり果たした。

 この日も、3回にわたって111台の工事車両が基地内に入った。また、琉球セメント安和桟橋でも、本部塩川港でも埋め立て土砂の搬出に、カヌーチームによる海上行動を含め、懸命な抗議行動が取り組まれた。

2020年3月6日リンクURL