日本の”報道・表現の自由”は深刻な脅威に直面~国連特別報告官

この3月末にニュースステーションの古館氏や、クローズアップ現代の国谷氏他の人気キャスターたちの相次ぐ番組降板、 昨年の「沖縄の新聞はつぶせ」発言、高市大臣の民放に対する「電波停止」発言など、政権や中央政治家のあからさまなメディアへの圧力・介入は、記憶に新しいが、

国際NGO「国境なき記者団」が20日に発表した2016年の「報道の自由ランキング」によると、日本は180か国中72位と、昨年の61位からさらに順位を下げたことが分かった。戦前回帰かと恐怖さえ覚える状況である。
また、日本における言論・表現の自由の状況を調べるために来日した国連の連特別報告者のデービット・ケイ氏が 、日本での調査を終え、東京の外国特派員協会で記者会見、「日本は、メディアの独立が深刻な脅威に直面している」と警告を発した。(21日沖縄タイムス報道)

ケイ氏によると特定秘密保護法や安保法などの成立でメディアが委縮し自己規制したり、電波法を盾に担当大臣がテレビ局に圧力をかけるなど、「政府に批判的な記事や番組の延期や取り消しが起きている」と指摘した。

そのなかで、辺野古新基地建設をめぐる過激な警備や、沖縄メディアに対する圧力にも言及した。

表現の自由の危機              <20日 沖縄タイムス朝刊>

記者会見ではドイツ紙の記者が「外国メディアが圧力を受けたり、情報へのアクセスから排除(取材拒否など)されたりする」こともあると発言、外国メディアにも懸念が広がっている。

この記事を、沖縄の新聞は大きく取り上げたが、中央メディアは朝日新聞も毎日新聞もネットで検索しても見当たらず、無視したか、もしくはかなり小さい扱いだったか、さずが東京新聞が沖縄のメディア並みに扱っていた。

この日の沖縄タイムスの社説は「メディアが政権にひれ伏し、民主主義が危機に陥ったとき、犠牲になるのは『自由』である」と結んでいる。

2016年4月21日リンクURL

情緒あふれるお別れ風景~渡嘉敷島

いまどき こんな情緒あふれるお別れ風景、そうそうお目にかかれるものではありません。
三月末、渡嘉敷島の港での風景です。

DVC00017.JPG 3月いっぱいで転任のため島を離れる小中学校の先生方を
教え子や父母たちが総出で見送るのは、遠い昔からこの島の風物詩となっています。

DVC00029.JPGDVC00025.JPG  島を去る先生と名残を惜しむ子供たち。抱っこされ甘えているのは1年生でしょうか。

DVC00015.JPG ここまではまだテープを手渡しできる距離。

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船が岸壁を離れ始めます。

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DVC00008.JPGテープが一本、また一本と切れて海に落ちて…。

DVC00011.JPG岸を離れるフェリーを追いかけるように、ケラマ太鼓の音が響きます。

DVC00004.JPG切れたテープを手繰り寄せ、愛おしそうに胸いっぱいに抱えた先生。このテープの先から教え子一人ひとりと思いを通わせているのでしょう。

この日は、渡嘉敷小中学校、阿波連小学校、両校の校長先生はじめ6人の先生方が島を離れました。

特に阿波連小学校の校長先生は
若いころに一度阿波連小学校に赴任、島の自然と暮らし、子どもたちとの触れ合いに魅了され、その後の教員生活の支えになったそうです。定年間近になって自ら希望して、校長として阿波連小学校へ赴任、教員生活の最後を渡嘉敷島で過ごしました。

都会の学校と違い、島の小さな学校では放課後も濃密な子どもたちとの触れ合いがあります。教師なりたての先生に釣りを教えたのも島の子どもたちだったそうです。

きっとこの交流は一生続くことでしょうね。

DVC00001.JPG船が見えなくなるまで、見送りの人々は手を振り続けていました。

現在60代の私が小学生の頃から変わらぬ風景です。
その私も20数年ぶりにこの光景に出会い、子どものころにタイムスリップした気分になりました。
五色の紙テープってまだあったんですね。

2016年4月18日リンクURL

「”集団自決 ” 71年目の慰霊祭~渡嘉敷島 ②

続けて書くつもりで①としたが、書くべきことは多く、時間はない状況が続き、ずい分間延びした記事になってしまったがお許しいただきたい。「”集団自決 ”71年目の慰霊祭~渡嘉敷島①」の続きです。

いま、戦没者慰霊碑・白玉之塔は渡嘉敷港を真下見下ろす北山(ニシヤマ)の中腹にあるが、かつては実際に集団自決があった現場のすぐ側にあった。

その場所に米軍基地が建設されたため、現在の場所に移設を余儀なくされた。
その米軍基地もわずか7年で撤退(1960年建設開始し、62年ホーク部隊250名駐屯したが69年に閉鎖)した。その跡地が現在の国立青少年交流の家(1972年に国立青年の家として開所)となっている。

そして、旧白玉之塔の跡地には1992年「集団自決地」碑が建立された。

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敷地内(写真左側)に、島に上陸した米軍の従軍記者が”集団自決”直後の現場を書いたロスアンゼルスタイムスの記事のプレートがあり、当時の様子を生々しく伝えている。

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~1945年4月2日、ロスアンゼルスタイムス朝刊より~

「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫びや鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。
<散乱する死体>
「明るくなってから、悲鳴の正体を調べに行くために二人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は6ヶ所8ヶ所で手榴弾が炸裂し炎が上がっているのを見た。
開けた場所に出ると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注、渡嘉敷島の人々)で埋めつくされていた。足の踏み場も無いほどに密集して人々が倒れていた」
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性や子供が少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は怪我をしていながら死にきれない幼い子が発するものだった。人々は全部で200人近くはいた。」
「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。
彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた。」
さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。
日本兵(注、島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注、島人の防衛召集兵)2人いた。」 「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。
後頭部に大きなV字型の深傷を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいけない、いまにもショック死するだろう、と軍医は言った。本当にひどかった。」
軍医達は死にかけてる人々にモルヒネを注射して痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人(注、渡嘉敷島の人々)を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道筋の洞窟に隠れていた一人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。
質問に答えられるまでに回復した日本人達(注、渡嘉敷島の人々)は米国人は女は暴行、拷問し男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料避難所を与えてくれた事に驚いていた。
自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て悔恨情にさいなまれていた。

最後に、
「集団自決」という表現は、「適切ではない」という主張がある。
「日本軍によって死に追い込まれたのであり、自ら死を選んだのではない。ましてや赤ん坊や子どもは自決などできない。戦争美談として、「”集団自決”に軍の関与はなかったとする側に利用されている」として、「強制集団死」という表現が使われている。

「自決」が軍隊用語であることからもその主張は全くその通りであると私も思う。
その主張を理解したうえで、「集団自決」は長年使われてきた表現であり、島の人々がいまも使い続けていることを尊重して、このブログでは「」あるいは””付きで「集団自決」と表現していることをお断りしておきたい。

2016年4月17日リンクURL