忙中閑あり ~ 沖縄市生涯学習フェスティバルに参加

 昨日の日曜日は、沖縄市の「生涯学習フェスティバル」に「琉球舞踊サークル」として参加してきました。

 実は、辺野古で踊っていることがご縁で、昨年一月から沖縄市で琉球舞踊のサークルを指導しています。元々は退職教師の方々で組織する共済会のサークル活動の一環ですが、沖縄市の中央公民館を稽古場として利用させて頂いているため、今回の「生涯学習フェスティバル」への参加となりました。

 

 まだ発足2年足らずのサークルですが、これまでに5回も発表の舞台を踏んでいます。今回踊っている演目は浜千鳥(チジュヤー)という琉球古典舞踊・雑踊りの一つです。

 

 皆さん退職教師の方々ですから平均年齢は70歳を超えていますが(登録24人中、この日は10名参加、この中の最高齢は85歳)、元気はつらつ、楽しいサークルです。 黒一点は、元中学の校長先生です。

 ところで、沖縄市の生涯学習フェス、とても賑やかでした。午前9時から午後4時まで、屋内、屋外2つのステージで、50演目(グループ)の舞台発表の他、体験型の様々なワークショップがあり、たくさんの市民が参加して、活気にあふれていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

民舞、太極拳、器楽演奏(さんしん)、棒術、屋外ステージでの子どもたちのエイサー、フラダンスなど演目も多彩で、舞台横ではミニFMによる実況中継も。

飲食コーナーではコーヒーや沖縄そば、カレーなどの提供もあり、たくさんの家族連れが楽しんでいる様子に、しっかりした地域コミュニティーの息遣いが感じられて、うれしくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

2019年12月2日リンクURL

東京で出会った沖縄 ~ 健康食品の宝庫 おきなわ

 去る14日、東京で全国的な憲法関係の会議があり、沖縄から仲間3人とともに出席した。その会場で、会議の参加団体が資金造成のため、健康食品の物品販売をしているので協力してほしいとの呼びかけがあり、沖縄へのお土産を買いたかったし、協力もしたかったので、休憩時間に覗いてみた。

 しかし、なんと!健康食品とはすべて沖縄県産品だった。ウコン、もろみ酢、お塩、薬草茶、黒砂糖、シークヮーサージュース etc。これを東京のお土産として持って帰るわけにはいかない。嬉しくもあり、可笑しくもあり…。

 翌日、私用で延泊したホテルは五反田駅の近くにあった。夜は時間を持て余して、駅前のビルにある本屋で気軽に読めそうな本を3冊購入。下りのエスカレーターをのんびり降りていると「さーたーあんだぎー」の看板を発見!思わずかけよってしまった。

 「健康 長寿のふるさと沖縄の自然健康食品」と謳っている。並んでいる品々は、昨日と同じく、ウコンにもろみ酢、お塩、薬草茶、黒砂糖、シークヮーサージュース、泡盛など、定番の品々。

 店主が試食を進めるので「わたし沖縄です」と言うと、「すぐわかったよ」と返された。やっぱり!ウチナージラー(沖縄らしい顔)しているんだねぇ。

2019年11月21日リンクURL

大浦「津波襲来の碑 」 ~ チリ地震の津波に呑まれた辺野古②

 先月の12日、島袋文子さんが1960年に起こったチリ地震で、辺野古の集落が津波に襲われた話をしてくださったことは、このブログでも取り上げましたが、調べてくれた方がいて、大浦の集落に「津波襲来の碑」があるというので、去る2日、辺野古大行動の集会の後に、大浦集落まで足を延ばした。

 大浦の集落は、まさに新基地建設で埋め立てられようとしている大浦湾の扇の要に当たる位置にある。眼前に埋め立て工事が進む辺野古崎が見える。

碑は、集落の中央、公民館などがある広場に建っていた。

 

 チリ地震津波とは、1960年5月22日(現地時間)、チリ南部沖合で発生したマグニチュード9.5の地震。チリでは地震と津波で約2000人の死者が出た。津波は太平洋全域に波及し、各地に甚大な被害をもたらした。

 日本へは24日(日本時間)午後に第一波が太平洋岸各地に到着、三陸海岸では高さが5~6メートルに達した。日本ではチリ地震津波として知られ、死者・行方不明者142人、家屋全壊1500戸の被害が出た。

 沖縄でも、沖縄本島中北部、宮古島、石垣島に津波が襲来、被害は死者3名、家屋全半壊28、半壊109、羽化上浸水602、床下浸水813に及んでいる。

 辺野古集落では死者はでなかったが、28戸の浸水被害がでた。「朝6時ごろ、何か重たいものを引きずるような大きな音がしたので目が覚めて、雨でも降っているのかと思って戸を開けたら、大きな波が山のようになって見えた。当時はトイレは汲み取り式だったので、それが海水と一緒になってもうぐちゃぐちゃ。大変だった!

 政府は大きな地震は起きないというけど、あんな遠い南米の地震でもあれだけの津波が起こるんだから、そんなところに基地なんか造ったら大変なことになるよ」と、話していた文子さんのことばが生々しい。

 当時、私はまだ小学生だったが、「チリ津波」と言えば、「屋我地大橋が決壊した」ということだけが、記憶として残っている。

 大浦の津波襲来の碑の横には、沖縄戦の戦渦にも耐え、チリ津波にも耐えてなお威風堂々、キジムナーも住むという樹齢120年のかじゅまるの木がそびえる。

 

 ガジュマルの根元に、私たち世代には懐かしいモノがぶら下がっていた。戦後20年くらいまでは、沖縄中どこの集落や学校にもあったのではないだろうか。沖縄戦の遺物・米軍製爆弾の薬きょうを利用した釣鐘である。これで時を告げ、子どもたちへ集合の合図を送り、火事など緊急のときにはガンガン打ち鳴らして危険を知らせた。それこそチリ津波のときにもこの鐘の音が、村中に響き渡ったのではないかと想像する。

 これが、今も使用されているのかどうかは、聞きそびれてしまった。

 

 集落の住民に、直接お話を伺うことはできませんでしたが、 「津波襲来来の碑」といい、可愛らしいシーサーの避難所表示と言い、大浦集落ではチリ地震津波波の教訓がいまも、しっかり生かされているように感じた。

 

 

2019年11月8日リンクURL