70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ③

慰霊祭には島の小中学生も参列した。

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小学生が千羽鶴を捧げ、中学生は平和への願いを込めた詩を朗読した。

「いま生きている私たちで考えよう。
 争いごとなくすために
 悲しんでいる人々を一人でも救うために
 二度とあの日の悲しみを繰り返さないために」

 

DVC00320.JPG宮城千恵さん(宜野湾市在住)は
当時、島の小中学校の校長として赴任していた祖父と、祖母を「集団自決」で失った。
戦後生まれの宮城さんは、もちろん祖父母の温もりを知らない。
『島のお年寄りから「校長先生は優しい人だったよ」と声をかけられ、
祖父が渡嘉敷島の人たちに溶け込み、慕われていたことを知って嬉しかった。
私も、そういう祖父や祖母に会いたかった』と声を詰まらせて語り、
一緒に慰霊祭に参列した親族とともに
自作の歌「命どぅ宝」を合唱、奉納した。DVC00317.JPG

 

「命どぅ宝」
       宮城千恵 作詞  入里叶男 作曲

一、 つきぬける青い空 はじける白い雲
    深い緑に透き通った青い海
  平和な平和なこの島で起こった悲しい出来事
  なぜなぜ亡くなったのおじいちゃんおばあちゃん
    私はその温もりも知らない
    白玉之塔に刻まれた名前を指でなぞるだけ
    美しい島は語る 命どぅ宝(ぬちどぅたから)
    命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝

 

けらまつつじ

けらまつつじ

二、 太陽に輝く空 はしゃぐ子どもたち
    海で働くたくましい漁師たち
    平和な平和なこの島で起こった悲しい出来事
    なぜ傷つけ合ったの愛する者同士が
    私はその温もりもしらない
 指先で触れ合うおじいちゃんおばあちゃん語りかけるだけ 
    美しい島は語る命どぅ宝
    命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝 命どぅ宝

 

私も父や祖母から、生徒たちをはじめ島の人々に「真喜屋校長先生」と慕われた
宮城さんのおじいちゃんの人間味あふれる数々のエピソードを聞いたことがある。

2015年4月1日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ②

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慰霊祭で主催者として式辞をを述べた松本好勝村長は翌日29日、70歳の誕生日を迎えた。

”集団自決”の現場からかろうじて逃げ出した母親が、砲弾が雨嵐と降り注ぐ山中をさまよう中で産気づき、彼を産み落とした。

「70年の節目に村長を務めていることに因縁を感じる」と、新聞社のインタビューに答えている。

 

 

吉川嘉勝氏は、当時まだ6歳だった。「北山(にしやま)に集まれ!」という日本軍の命令に従い父母兄弟姉妹で雨の激しく降る山道を登った。北山には日本軍の本部壕があり、そこへ行けば友軍が守ってくれると誰もが思っていた。が、待っていたのは阿鼻叫喚の修羅場だった。集めれれた村人たちの間で、誰かが「天皇陛下ばんざい!」と叫んだのを合図に周辺あちこちで手りゅう弾がさく裂した。死に遅れてはならないと家族・親戚が一塊となった輪の中で、兄の一人が日本軍から渡されていた手りゅう弾の信管を抜き石でたたいた。しかし手りゅう弾は何度叩きつけても爆発しなかった。

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

この雑木林のなかで、多くの人たちが命を絶たれた

そのとき吉川氏の母親が叫んだ。「死ぬのはいつでもできる。人間は生きられる間は生き抜くものだ。命どぅ宝やさ(命こそ宝だ)」。立ち上がって歩き出した一家を追って何人もの人たちが”玉砕場”を抜け出し、命を救われた。吉川氏の母親は、集落の祭祀を司る人として人々から尊敬されている神人(かみんちゅ)だった。

「訳もわからず、自ら命を絶つことに、神人の母は納得がいかなかったようだ」と、後に吉川氏は証言のなかで語っている。

2015年3月30日リンクURL

70年目の慰霊祭~渡嘉敷島の「集団自決」 ①

渡嘉敷島の戦争犠牲者を祀る慰霊碑・白珠之塔で70年目の慰霊祭が執り行われた。

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DVC00314.JPGDVC00321.JPGハーブ 周子 153

 

 

 

 

この日の渡嘉敷島・阿波連

この日の渡嘉敷島・阿波連

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我が愛する故郷渡嘉島。70年前、この美しい島で、なにが起こったのか!

<渡嘉敷村公式ホームページから>

物量に劣る日本軍の特攻部隊は、山の中に逃げこんだ。連日の空爆や、艦砲射撃でパニック状態におちいった住民は避難の場所を失い、島北端の北山(ニシヤマ)に追いつめられた。(※日本軍の命令でここに集められた

「米軍に捕まると、男は耳や鼻を削がれ目を疲れて殺される、女はレイプされ、股裂にきされて殺される」と信じ込まされ、3月28 日、日本軍から植え付けられた「捕虜になるのは非国民」という思い(※スパイ視され、処刑される日本軍への恐怖)から集団を組んで自決した。

手留弾(※前もって日本軍から配られていた)、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で親兄弟の首を絞めたり、首を吊ったり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていった。

「ありったけの地獄が出現した」と表現される沖縄戦。その地獄の一つが「集団自決」

ここで起こった悲惨な出来事は、戦争を知らない世代には想像すらできないであろう。しかし、実際に起こったことである。

白玉之塔には「集団自決」の犠牲者330名を含む戦没者594名が祀られている。当時の人口は1000人前後とみられていることから、実に村民の半数以上が戦争の犠牲になったということになる。私の祖父の名もここに刻まれている。

< ※は投稿者注>

 

 

 

 

 

 

2015年3月29日リンクURL