終わらない戦後③~戦没者の遺骨を家族のもとへ帰してあげたい

< ガマフヤー・具志堅隆松さんの想い>

辺野古ゲート前で基地に向かって訴えているのは、自らをガマフヤーと称し、ボランティアで34年間も戦没者の遺骨を掘り続けている具志堅隆松さん(63歳)。

「キャンプ・シュワブは、終戦直後捕虜収容所だった。そこで亡くなった人たちの埋葬地があったが、そのまま基地が作られてしまったため、まだ収容されていない遺骨がたくさんある。調査をさせてほしいと米軍に要請しているが、いまだに実現しない。米軍のために死んだ人たちの遺骨が収容されないまま、その上にさらに基地を建設するなんて、戦争で亡くなった人たちへの二重の冒涜だ。米軍は、私たちにきちんと向き合いなさい!」。

基地内の遺骨収集を訴える具志堅隆松さん。
米軍は戦後すぐに住民を収容所に囲い、
その間に沖縄中に基地を建設した。戦没者の
遺骨収集がされないまま…。

<いまだ未収骨113万人>
去る大戦で沖縄を含む海外での日本人戦没者は240万人と言われている。そのうち収容された遺骨は約127万人余、残り113万人がまだ異国の土の下に眠っている(2016年厚生労働省資料)。戦後70年以上が過ぎてもまだ半数の遺骨が収容されていないとは何ということだろうか。しかも戦争責任を負うべき国が行った遺骨収集は34万人分に過ぎず、多くは遺族会やボランティアなど民間の手で行われてきたという。

そのうち沖縄戦の戦没者はおよそ22万6千人。これまでに18万5121人分の遺骨が収容されたが、4万人が未収骨。現在も、毎年約100人分の遺骨が新たに収容されている。

<ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ>
前出の具志堅隆松さんは、ボーイスカウトのリーダーをしていた28歳のとき、本土から来た遺骨収集団の支援で戦没者の遺骨収集に初めて参加した。激戦地だった南部の原野に点在する岩の割れ目や埋没壕を少し掘ると、次々と遺骨が出てきた。「戦争で死んだ人が何十年も放ったらかしにされていたなんて!」という思いが胸にこみ上げた。以来、遺骨収集に毎年参加するようになった。

学生ボランティアによる遺骨収集

しかし、本土からの遺骨収集団がやってくるのは一年に一回だけの年中行事。年々劣化していく遺骨に気がつき、一人でも収集しようと決心、仕事が休みの週末にコツコツとガマを掘り続けてきた。その中でわかったことは、この遺骨の人は「死んだ」のではなく「殺された」のだということだった。

<遺骨は戦争の証言者>
遺骨が埋まっている状態から、その人がどんな状況で死んだのかがわかるという。そのためには遺骨を動かさないよう竹串や刷毛などによる手作業で丁重に掘る必要がある。そして発掘状況のすべてを細かく記録する。とにかく忍耐と時間が要る作業だ。
具志堅さんは、日米軍が激突したかつての激戦地が、都市開発でどんどん掘り起こされていくことへの懸念から、一人で遺骨収集をすることに限界を感じるようになった。開発工事現場は決められた期間に遺骨収集作業を終わらせなければならない。広大な土地の発掘を一人でするのは無理と悟り、新聞に投書したり「市民参加型遺骨収集」のパンフレットを作ったりしてボランティアを募ったところ50名あまりの参加があり、これがきっかけで沖縄戦遺骨収集ボランティア集団「ガマフヤー」が誕生した。
一方で、国(厚労省)の管轄で行われている遺骨収集もあることもわかった。そこでは入札による請負の土建業者が、土を重機で掘り起こし、ベルトコンベアーでふるいにかけて遺骨を取り出していた。「遺骨はただ収骨すればいいというものではない。遺骨収集を金儲けの手段にするなんて!」と具志堅さんは憤る。

<遺骨を家族のもとへ帰したい>
具志堅さんの長い活動のなかで、これまでアメリカ兵の遺骨は一度も出ていないという。それは、米軍には戦死者の遺体はどんな危険を冒しても収容して本国へ送り、家族のもとへ帰すという伝統があるからだとのこと。
ベトナム戦争でも戦士した米兵の遺体は沖縄に運ばれ、洗浄、修復し防腐処置を施してアメリカ本国へ送られていた(遺体の洗浄に関わった県民の証言)。それに比べて日本軍は、食料は現地調達、戦死者の遺体は現地に置き去りという無責任な軍隊だったことがわかる。

「父は私が生まれて一週間後に召集され『沖縄の糸満で戦死』の公報が届いたが、骨箱に入っていたのは、遺骨ではなく一塊の石ころだった」。1977年から150回以上も沖縄に通って、沖縄戦で亡くなった父親の遺骨を探し続けている佐賀県の塩川正隆さん。
(辺野古ゲート前にて 15年9月)

具志堅さんたちの強い働きかけもあって、2016年2月、国はやっと「戦没者遺骨収集推進法」を成立させた。
収集された遺骨は国立沖縄戦没者墓苑に納骨される。しかし、具志堅さんたち「ガマフヤー」の最終目標は遺骨を故郷の家族のもとへ帰すことである。そのためDNA鑑定で求めてきた。当初国が認めたのは兵士だけだったが、民間人もDNA鑑定が認められることになり、いま135人の遺族が鑑定を申し出ている。

<戦没者の遺骨収集は国の責任>
遺骨収集ひとつをとってみても国の戦後処理のあり方には、戦争を起こしたことへの反省や責任、戦没者への謝罪のかけらも感じられない。だからまたぞろ新たな戦前へと向かうことが平気でできるのであろう。
最後に具志堅さんのことばを今一度噛みしめたい。「僕たち国民は、国が果たすべき責任はきっちりと果たすように要求し続けることが大切です。それが国民としての責任であり、次の世代の日本社会をよくすることに繋がります」。

 

※ガマフヤー:「ガマ」は洞窟や壕など。フヤー:掘る人。
※参考文献:具志堅隆松著『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』

2017年9月15日リンクURL

今日(9月13日)の辺野古~沖縄ダンダン!安倍のダラクソ!

♪ 雨が降ろうが、風が吹こうがゲート前 ♪
そんな歌を歌いながら、台風18号の最中今日もゲート前に。

メインゲート前のテントでは、泊まり込みのスタッフが風で巻き上げられるテントの補強をしたりと、台風対策に追われていた。

時折、叩きつけるような雨に、いつもの雨具も役に立たず、もちろん傘も差せないのでビショ濡れで座り込む。

さすがに早朝は、いつもより座り込みの人数は少なかった。そこを見越してか、待機中のトイレ送迎車を「ここは駐停車禁止です。すぐに移動してください」と、パトカーが追い立てる。

場所を移動して停めると、ここでもパトカーが後ろから「移動しろ」と脅す。ゲート前行動が始まってこれまで3年間、こんなことはなかった。「トイレに行く便宜くらい認めろ」と、みんなで抗議。ミミッチイが弾圧はここまで来ている。

島根から「沖縄と連帯する島根の会」の皆さんが座り込みに参加。ゲート前にあふれる「うちなぁぐち」に応えて、島根にも島根弁があります」と披露したのが「沖縄ダンダン!」「安倍のダラクソ!」だった。 ちなみに、ダンダン=ありがとう ダラクソ=大バカヤローだそうだ。

専修大学の学生たち(30名)は、「沖縄ジャーナリズム講座」で沖縄の新聞からジャーナリズムを学ぶ若者たち。座り込んでいる沖縄の人たちの中に入り、真剣に聞き取りをしていった。

 

人数が少ないことに付け込まれ、3回にわたってごぼう抜きに合い、179台の砕石や工事資材を積んだトラックに入られてしまった。

「いちゃりば ちょーでー(出会えばきょうだい)」

機動隊の檻に囲われても声をあげ続ける抗議の人々。

道交法違反の改造車も多数含まれる業者のダンプトラック。違法ダンプを取り締まるどころか、護衛、誘導して基地の中に入れる県警。市民らの抗議にも耳を貸さない。

2017年9月14日リンクURL

石川真央写真展 大琉球写真絵巻 partⅣ

3度目のガンの手術を抱えながら大琉球写真絵巻四部作を完成させ、写真展を開いた石川真央さん。「写真の神様」から与えられた命をフル回転させている。

開催期間は9.5~9.10で、すでに終わってしまったが、県外の共通の友人の中には、頑張っている真央さんの様子を知りたいという方もいらっしゃると思うので、報告のつもりでアップしておきたい。

 

開催期間中、毎日一回入院中の病院を抜け出してきて、一時間以上かけて自ら解説。連日たくさんの人たちが駆け付けた。

パートⅣとなる今回の大琉球絵巻。第四部の大きなポイントの一つはは、辺野古新基地をめぐってトランプ大統領と安倍総理の関係。「お手」と差し出したトランプ大統領の手のひらに、ポチよろしく「お手」をする安倍総理の図。しっかり首輪もはめられている。

歯に衣着せぬ「真央節」健在!権力の側にだけでなく、味方にもしっかり物申すのが「真央流」である。集まった人たちの間から何度も共感の拍手が起こっていた。

パートⅣのポイントもう一つは、昨年起こった元米兵による女性強姦殺人遺体遺棄事件。

元金武町長で現在翁長県政で政策調整官をつとめる吉田勝広さんは、地元金武町で起こった事件でもあり、毎週一回献花に訪れる。「政治家はあまり信用しないけど、毎週欠かさず来ているので、この人は信頼できると思ったので、被写体になってもらった」とのこと。

▼上の写真の解説

あなたの町や村でも、石川真央大琉球写真絵巻の写真展を開きませんか?

2017年9月13日リンクURL