16日祭の渡嘉敷島

 いつもは辺野古へ行くはずの水曜日だが、昨日(16日)は、ジュウルクニチー(16日祭)で渡嘉敷島に帰省した。

 16日祭は、旧暦1月16日のグソーヌショウグヮチ(後生・あの世のお正月)である。先祖を大切にする沖縄では、現世の正月には帰らなくても、16日祭に帰らないと、「親不孝者」と言われる。

 コロナ禍で帰省もままならない昨今、家族を抱える他の姉妹らは帰省できず、昨年は私が1人でお参りしたが、今年は、末の妹と帰ることが出来た。


 

 まずは、一族の始祖を祀ると言われるウル墓にお参りする。ウルとはサンゴ礁のこと。「うるま島」の「うる」である。集落北側の山すそに一枚の大きなテーブル珊瑚が置かれただけの素朴なお墓。想像するしかないが、たぶん古代一般的だった風葬の地であったと思われる。(近年、表出した遺骨の一部を一か所に集めてウルの傍らにお祀りしたと聞いている。)

 始祖を同じくするいくつかの家族が、それぞれに香炉を置いてお参りしてきたが、そこへ祀られている人々がどういう人たちで、どういうつながりがあるのか、私たち世代は具体的なことは何も知らない時代になっている。祖父母や親たちの習慣を受け継いで、お参りを続けている。 

 続いて、4代前からご先祖と両親の眠る亀甲墓にお参り。その中で私たち兄弟姉妹が顔を知るのは、 両親と祖父母、曾祖母までである。

 渡嘉敷島では親族による門中墓ではなく、そのときお墓が必要な複数の家族が寄り集まってつくる「もあい(模合)墓」、いわゆる「寄り合い墓」が一般的であるようだ。我が家のお墓も祖父母の時代に5、6軒が寄り集まってこのお墓をつくったそうだが、多くが沖縄本島に引き上げて、現在もここを使っているのは2軒だけになっている。 

 お参りの最後に、ウチカビと呼ばれるあの世のお金を燃やして送金する。あの世も、お金がないと暮らせない資本主義社会なのだろうか?

 小雨が降り、ウチカビも湿りがちだったが、勢いよく燃えて灰が空高く舞い上がった。送金がちやんと届き、ご先祖様が喜んでいる証しなのだという。

 沖縄には春・秋のお彼岸に墓参りをする習慣はなく、また渡嘉敷島にはシーミー(清明祭)がないことから、先祖・肉親の墓参りができるのはこの日(16日祭)をおいて他にない。「ジュールクニチーに帰らないと親不孝」と言われる所以である。

 コロナ禍で観光客もほとんどなく、往復に乗った高速艇もガラガラ状態。船着き場の案内板も、見る人もなく寂しそうだった。

 島の唯一の産業である「観光」の落ち込みは、人々の暮らしを直撃している。やはり地に足をつけた「産業」「生活基盤」を生み出す必要があるのではないだろうか。自然も、人間の命さえも金銭に替えて価値を測る資本主義社会、「これでいいのか?」と、コロナウイルスに問い質されている気がしてならない。

 

 

2022年2月17日リンクURL

古からの海上交通の要所 ~ 渡嘉敷時島 ➁

 

 西展望台からケラマ海峡を望む。この日はあいにくの曇り空で残念ながらいつもの抜けるよう碧い海の輝きはお預けとなったが、それでもこの絶景にはいつもながら息をのむ。

 ケラマ諸島の島々を繋ぐこの海は、単に美しいだけでなく、琉球王朝時代の古から、(現在の)中国はもとよりタイ、カンボジアなどとの国際的な外交・交易航路の要所でもあった。

 国立青少年自然の家東側高台にある『赤間山ヒータティヤ(烽火台)跡の碑』

<航海を見守る古の狼煙台>

 江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として始めて烽火(のろし)を考え、中山支配下の各間切(まじり)や周辺の島々に烽火台を建てました。その中の一つが、現在赤間山の頂上に残っている烽火台跡です。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、渡嘉敷島のこの赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。

 
 烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは、一筋の煙、2隻のときは、二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は、三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたきかたがあったのです。唐船の時代、慶良間の 島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。

 これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて、島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山のヒータティヤーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため、這根樹(はいねじゅ・ヒッチェーシ)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。(渡嘉敷村公式ホームページより  抜粋)

 しかし、皮肉なことに沖縄戦ではこの航路が、アジアから南下してくる米軍を導き、慶良間諸島上陸、そして沖縄全体へと戦火を広げていくことになる。サンゴ礁の海はいたるところに環礁があり、近海の航路を熟知していないと座礁する危険性が高い航海の難所、慶良間海峡で2~300百隻の米軍艦がひしめくなかでも事故が起こらなかったのはなぜか?

 江戸末期、日本の開国を求めてやってきたペリー艦隊は、琉球をベースキャンプにして日本に向かった。そのときにつくられた海図が沖縄戦でも使われたのだという。

 秋風がたち始めたこの日、アリランの碑入り口にある大きなソテツに、雄しべに抱かれるようにたくさんの赤い実が熟れていた。

 

2021年10月19日リンクURL

ケラマカチュー(鰹)の思い出 ~ 渡嘉敷島①

 16日は、高知県からの友人たちを案内して渡嘉敷島へ行ってきた。
 
 これまでこのブログで渡嘉敷のことを紹介するときは、沖縄戦の悲惨な話が多かったが、今回は文化遺産のエピソードを一つ二つ紹介したい。


 船着き場近くにある村営住宅の敷地内に、古い煙突が遺されている。慶良間諸島は、かつて全国的に名を馳せた鰹節の名産地だったことはご存知だろうか?その鰹節工場名残の煙突である。

 沖縄おける鰹漁の始まりは、隣の島・座間味村からである。1885年(明治18年)、鹿児島の漁師が座間味島を拠点にして鰹漁を始めたとされる。続いて宮崎や静岡の漁民もわずかなウミガネー(入漁料)をおさめ、豊かな漁場を持つ慶良間周辺の海で鰹漁を行い、莫大な利益を上げていた。

 自分たちに技術がないばっかりに、宝の海を前にしてただ指をくわえて見ているしかなかった座間味村の島人達は、1901年(明治34年)一念発起して、座礁して国頭村に流れ着いた静岡の漁船を買い取り、沖縄県人初の鰹漁をはじめたという。

 その座間味村から技術を学び、1904年(明治37年)、渡嘉敷島でも鰹漁が始まったのである。山が深く、豊かな薪と水に恵まれた渡嘉敷の鰹節つくりは数年を待たずして、「ケラマ節」と呼ばれる全国的なブランドになった。慶良間は日本3大鰹漁の名産地に発展、集落には瓦葺の家屋が次々と建つほど豊かになった。

 

 <どこまでも青く澄んだ空と海、海をはさんで向こうに見えるのは座間味の島々>

 私にも、子どもの頃のかすかな記憶がある。夕方、島に3隻あった鰹船が、大漁旗を掲げ、汽笛を鳴らして次々港に戻ってくると、大人も子供も駆け出して浜辺に集まってくる。伝馬船で次々浜辺に運ばれる鰹は、その場で解体され、鰹節工場に運ばれていった。浜辺にうずたかく積まれた鰹の頭、内臓などは村人が誰でも自由に貰っていくことが出来た。それらは島の人々の夕餉を飾った。だしの効いた鰹のアラのお汁、塩辛、白子、ハラミなど栄養豊富な食事だった。

 不思議なことに、浜辺に渦固く積まれた何千本という鰹の頭や内臓などは、いつもたくさん残り、子ども心にも、腐って白い砂浜が汚れるのを心配したが、翌朝にはきれいに跡形もなく消え去っていた。夜のうちに波にさらわれて沖に運ばれ、魚や海の生物たちの餌となって循環していたのだ。

 それほど隆盛した渡嘉敷島の鰹漁もいくつかの浮き沈みを経てやがて衰退してゆく。決定的だったのは1960年の米軍基地建設だった。重労働の上、一年に一度しか現金収入のない鰹漁に比べ、日銭が稼げる軍作業に人手を取られ、3つあった鰹節工場は成り立たなくなって消えて行った。

 しかし、島の基幹産業をつぶした米軍基地も、わずか6年後には撤退してしまう。地域の事情などお構いなしに、誰も、何の責任もとらず…。戦後の米軍支配によって産業基盤の成長が意図的に抑制され、復帰後50年がたってもいまだその後遺症を抱える沖縄の姿が、小さなコミュニティでは縮図となってわかりやすく表出する。その典型的な例である。

 
 

2021年10月18日リンクURL