目立つ防衛局の威圧的対応 ~ 3月29日の辺野古

 29日はいつもの7時のバスではなく、那覇9時発のバスで辺野古に向かった。このところ少々忙しかったので無理がたたって体調を崩し、今週は休もうかとも思ったが、やはり身体は休めても、なんとなく心が落ち着かず、結局9時のバスに飛び乗ってしまった。

 いつもとは違うバスのメンバーと、すでに陽が高く昇り、バスの窓から見える外の景色も違って見える。たまには気分が変っていいかもしれない。

 辺野古に到着したのは10時過ぎ、一回目の座り込みは終わっていた。3188日目の辺野古である。

 コロナ禍が収まり、県外・海外からの修学旅行、平和学習ツアーも増え、辺野古へ若い人たちの姿が多くみられるようになってきた。この日は11時の第4ゲートからの搬入もなく、二回目12:00前の座り込みまでゆっくりと参加者の同志の交流が行われた。

 11時過ぎにやってきた20数名の若者は大阪からの国際高校の生徒たち。毎年沖縄だけでなく、チェジュやコンゴ、チリ、台湾など政治的、民族的な問題を抱える国や地域を訪れ、歴史や文化、地元の人々と直接触れ合う中から、軍隊や基地問題、戦争をどうとらえ、記録し、後世にどうつなげるかを学んでいるという。

 この日のリーダー高里鈴代さんからレクチャーを受けた後、「米軍は問題もあるかもしれないが、日本は憲法9条があって自らは戦うことが出来ないので、米軍がいることで平和が守られているのではないか?」と鋭い質問が返ってきた。「米軍は日本を守るためにいるのではない~」との高里さんの説明に大きくうなずいて帰って行った。

 このような学校や教育が日本にもあるのだと知り、きっと頼もしい大人に成長するであろうと感動した。

 

 

 

 
 

 辺野古ゲート前をはじめ、安和、塩川など抗議行動の現場で、このところ問題になっているのが、沖縄防衛局の威圧的な態度である。

 これまでは民間警備員の後ろに隠れるようにして、「工事車両が入ります。すぐに立ち退いてください」とハンドマイクでがなり立てるだけだったのが、最近は警備員の前に出張ってきて、直接座り込みの市民に指示するようになった。

 先週は警備員の肩越しにゲートの中の写真を撮ろうとした市民を引きずり倒したと問題になった。行政の一職員でしかない彼らには、抗議の市民に指示し排除するなど、身体的に接触・強制する権限はない。戦争政策を進める国家権力を笠に着て、市民を見下した威圧的態度を許してはならない。

 正午前の2回目の行動には40名が座り込んだ。

 私も要請があったので、前日の渡嘉敷島での「集団自決」の慰霊祭について報告した。「集団自決」は、いざ戦場になったとき軍隊は住民を守るどころか、自らが生き残るために住民を犠牲にするという典型的な実例であると訴えた。 


 三回目、午後3時前の座り込み、冷たい雨が降り出した。 

 この日は、JICAのメンバーとしてミャンマーでボランティア活動する友人に誘われて、辺野古からの帰り沖縄市で行われた映画の上映とトークイベントに参加した。

 ミャンマーで医療活動する耳鼻科医・大村和弘医師を描いたドキュメンタリー映画「Dr.Bala(ドクターバラー)」。今日二つ目の感動と希望に出会った。人間ってやっぱり素晴らしい。

 

2023年3月30日リンクURL

「集団自決」4年ぶりに慰霊祭 ~ 渡嘉敷島

 78年前の沖縄戦で、米軍が初めに上陸した慶良間諸島では、激しい艦砲射撃の後上陸して来た米兵と、捕虜になることを阻まれた日本軍とのはざまで、多くの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。

 渡嘉敷島では3月28日、日本軍の命令によって、それぞれの避難壕から、島の北側にある北山(ニシヤマ)に集められた住民329人(当時の人口1000人余)が、予め軍属を通して配られていた手榴弾などにより犠牲となった。

 島では33年忌を過ぎても、毎年3月28日に村主催による慰霊祭を行ってきたが、コロナ禍により中断され、今年は4年ぶりの慰霊祭となった。

 「忘れじと 思う心は白玉の 塔に託して 永遠につたえん」

 慰霊祭の会場となった「白玉の塔」は、当初(1951年)実際に「集団自決」のあった場所に建てられたが、そこが米軍基地に接収(1960年)されたため、現在の場所に移転建立された。 

 白玉の塔には、12時過ぎからの慰霊祭を前に多くの村民や遺族が花束を持ってお参りに訪れていた。

 塔には「集団自決」だけでなく、徴兵などで島外(県外、国外も含む)で亡くなったすべての戦争犠牲者594柱の名前が刻まれている。沖縄戦では県民の3人に1人が亡くなったとされるが、集団自決のあったこの島では、実に村民の半数余が犠牲になったことになる。

  

 「捕虜になるのは非国民」、米軍に捕まると、男は耳や鼻を削がれ目を突かれて殺される。女はレイプされ、股裂きにされて殺される」と日本軍から教え込まれたことを信じた住民は、手榴弾やカマ、クワ、カミソリなどを持っていた者はまだいい方で、幼い子は岩や木に打ち付けて殺し、母が子を、兄は弟妹を、夫が妻をと手にかけ、自らは最後に首を吊って息絶えた。その光景は、とてもこの世の出来事とは思えない、「ありったけの地獄を集めたよう」だったと伝えられる。

 一方、「捕虜になるのは非国民」と言った当の日本軍は、隊長以下多くが米軍に投降し、捕虜となって生き延びた。

「犠牲となられた方々の思いは、平和の守り神として子々孫々まで語り継いでいく」と、式辞を述べる新里武広村長。

 渡嘉敷小中学校、阿波連小学校の児童生徒全員で折った平和の千羽鶴が供えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

就学前の孫たちとともに手を合わせる家族連れや、島の野に咲く慶良間ツツジやテッポウユリを手に焼香する人の姿も。 

 当時、祖父母が学校長として島に赴任していて、「集団自決」の犠牲になったという姉妹が、自作の「命どぅ宝」という歌を奉納することが、毎年恒例となっている。

 慰霊碑の参道を彩る慶良間ツツジの花が、まるでこの日を待っていたかのように、いま真っ盛りである。

 この日は、さらに午後から渡嘉敷区の公民館で、体験を語り合い、語り継ぐための「慰霊のつどい」が開かれた。その模様は項を改めて記したい。

 

 

2023年3月28日リンクURL

命のある限り沖縄とともに闘いつづける ~ 県外から続々と… 今日(3月22日)の辺野古

 今日の辺野古は、未明からの大雨で、やんばる地方に洪水警報が出されたため、那覇からの出発が1時間遅れた。辺野古へ着いたときは丁度一回目の座り込み行動が終わり、みんながテントへ引き上げて来るところだった。

 

 県外から大挙やってきたのは退職教職員OBの皆さん。毎年沖縄平和ツアーを組織的に行っていたがコロナ禍で中断。三年ぶりに今回で第11次沖縄平和ツアーとのこと。北は北海道から九州・大分まで全国各地から17名の参加。

「沖縄に次いで第二の基地県・神奈川県から来た。沖縄に来ると状況の厳しさは段違いと感じる」

「北海道から。コロナ禍前は毎年来ていた。不平等な日米地位協定は絶対に許せない。これは自分事。命ある限り沖縄と共に闘いたい

「千葉の館山にも自衛隊基地があり、木更津にはオスプレイが飛んでいるが、なにかよそ事のようで切迫感がない。沖縄に来て戦争が迫ってることをひしひしと感じる。帰ったら仲間たちに伝えたい」と、それぞれが沖縄平和ツアーの感想と決意を語った。 

 12:00前の第二回の抗議行動は、日退協の皆さんも参加。50名が座り込んだ。

 水曜日名物の豪華ランチバイキング。不思議とメニューが重ならないから不思議だ。そして、どこのレストランで食べるより美味しい。今日も満腹するまでいただいた。

 今日3回目、午後3時前の座り込み。降水確率40%、北部地域には洪水警報も出ていたが、幸い帰るまで雨は降らなかった。

 

2023年3月22日リンクURL