辺野古の闘いは、今から25年も前に地元辺野古のおじぃ・おばぁたちが、浜に闘争小屋を建てて坐りこんだことから始まった。私たちは、その原点を忘れてはならない。そして、今も地元住民として戦い続けていることを!
政府はコロナ対策で、民間企業に正月休みを最大11日まで取るよう勧めながら、自らは辺野古の工事を早々と正月4日から再開した。
菅総理自身が「会食は4人以内で」と国民には言いながら、自らは大勢で、しかもはしご会食、30人以上の大宴会を開いた現職大臣もいるような国だから、推して知るべしか!
辺野古へ着くと、ゲート前の風景が変わっていた。民間警備会社がテイケイ(帝国警備)から、アルソックに変わったという。
微動だにせず、定規で測ったかのように整列し、身長もそろえ、話しかけても表情一つ変えなかった軍隊式のテイケイとは打って変わって、アルソックの皆さんは、身長もまちまち、右向いている人がいるかと思えば、左を向いている人、後ろを振り返っている者あり、見事にデコボコ。何か和むというかホッとして、こちらもほほが緩む。ただ、制服の色が機動隊と全く同じで、遠目には区別がつきにくいのが玉にきず。機動隊がたくさんいるように見えてしまう。
9:00、一回目の搬入には30名余で座り込んだ。年が改まっても、いつもの風景が展開された。
「辺野古の海に、鉄筋はいらな~い!!!」
12:00の二回目、15:00の三回目は40名余で座り込んだ。特に水曜日は、アルソックや機動隊も見守る?中、長蛇の列をつくるミキサー車やダンプを待たせたまま、まるでのど自慢大会のような歌上手たちが、次々と得意の喉で「辺野古抵抗の歌」を聞かせてくれる。
どんなに機動隊に急かされても牛歩戦術で粘る女性。
今年最初の水曜日、「あきらめない!」決意も新たに辺野古ゲート前行動を開始した。
< 表>
辺野古バスの中で配られたチラシです。配った方の友人から送られてきたそうです。
この「ジュゴン新聞」をつくった方は、神奈川県で小学校の教師をしていらっしやるとのこと。地域のお祭りがあり、「あなたは沖縄へよく行っているようだから、皆さんに辺野古のお話をして」と、思いがけず声をかけられ、戸惑いながらも大勢の地域の人たちの前で、「沖縄の人たちが新しい米軍基地に反対して頑張っている」ことを話したのだそうです。埋められようとしているその海は「ジュゴン」も美しい「サンゴ」も「海亀」も住んでいる「命の海」だということも。
すると意外にも多くの人たちから「沖縄でこんなことが起こっているとは知らなかった」「辺野古のことをもっと知りたい」と好意的な反響があり、「知らないから無関心だったのだ」と気が付いたそうです。
そこで、思いついたのが「ジュゴン新聞」。子どもたちに、日本で沖縄の海にしかいないジュゴンを通して、平和と環境の大切さを伝えたのです。
< 裏>
子どもたちは、とても関心を持ち素直な気持ちでたくさん質問をしてきました。そして、このチラシをもって家に帰り、親やきようだい・家族に、目を輝かせて「ジュゴン」の話をしました。
今では「ジュゴン」でつながった絆が広がり、地域の有志たちで「沖縄に、もう米軍基地はいらない」と、駅前でスタンディングをするまでになっているという「うれしいお話」です。