琉球新報に連載中の「OKINAWAへ~海外識者メッセージ」
今日は沖縄にゆかりのある日系カナダ人 ジョイ・コガワ氏。
「私たちの心に平和をもたらすのは、ほかの何でもなく『許し』だ」と語る。
沖縄の陶芸の里・壷屋といえば
この風景が看板替わりになっています。
昨年11月から、週に5日、壷屋のやちむん(焼き物)通りを
朝夕行き来しています。
壷屋は那覇市のど真ん中にあるので
今では、この地で登り窯をたくことはできませんが
先祖代々壷屋で生まれ育った陶工たちが、こぞって店を構える
観光スポットでもあります。
シーサーのふる里でもある壷屋ですから
どの店も個性あふれるシーサーたちのオンパレード。
旅行をすると必ずその土地の窯を訪ねるほどの
大の焼き物好きの私としては、片道30分かけて歩くこの道は
今日はどんなシーサーに出会えるかとワクワク、ドキドキの毎日。
店のショーウインドウはもちろん、道端、建物の壁、屋根の上と、
いたるところに鎮座しているシーサーたちが「ここにいるよ!」
と言わんばかりの表情で語りかけてくるのです。
独り占めしてはシーサーたちに怒られそうなので、
これは!というシーサーに出会えたら、随時ご紹介していきます。
帰宅難民としてさまよっていた最中の出来事は、
その時は必死で、考える余裕もなかったが
いま振り返ると、不思議なことがたくさんある。
駅前で、2~300名はいたと思われるタクシー待ちの行列は、
整然としていて、誰も先を争ったり、押し合いへし合いする者もいなかった。
駅に入ろうとする人たちを押しとどめる警備員に
文句を言ったり、強引に中へ入ろうとするような人もいなかった。
誰もが、身体を休めたり、寒さを避けるために、
営業中のレストランや居酒屋、ファーストフード店へ入りたかったはずだけど、席を奪い合う様子もなかった。
被災地でも、津波に家ごと流され、3日目にやっと救助されたお年寄りが、手を差し伸べる救助隊員に、「ありがとう。私はいいから他の人から先に助けてあげて」と言ったという。
あの混乱の中、集団パニックや暴動が起こっても不思議ではない。
日本以外の国なら、きっと暴動が起こっただろうと、そうした日本人の姿が世界から称賛された。
あれから3年。
いま日本は世界からどんな目で見られているだろうか。
いまだに30万人近い人々が仮設住宅で暮らし
原発の汚染水は海に垂れ流し、メルトダウンした原子炉は空中に放射能をまき散らし続けている。
なのに政府は、復興住宅が資材不足や人手不足で
いまだ3%も出来上がっていないというのに、オリンピックの東京開催に浮かれ、人手も資材もオリンピック関連設備の建設に引き裂かれようとしている。
さらに、福島の原発事故がいまだ収束のめどさえも立たないのに、早々と原発の再稼働を決め、
臆面もなく「世界一の技術」とかうそぶいて、日本制の原発を外国へ売り込むなど、破廉恥なことと言うほかない。
放射能汚染で、いまだにふるさとの地へ帰れない福島の人々。その気持ちは、到底第三者なんぞが言葉で表現できるものではない。
しかし、戦後70年近く、我が家を集落ごと米軍基地の金網に囲われたまま、いまだに故郷に帰ることができない沖縄の人々には共感することができる、と思うこのごろである。