数霊~11・11のエネルギー

2015年の11月11日
今日は、「11」がダブルとなっている日ですね。DVC00014.JPG

「言葉」にはエネルギーがあって「言霊」とはよく言われますが
「数字」にも同じようにエネルギーがあって「数霊」というようです。

最近読んだ本によりますと
数秘学では、「11」という数字はマスターナンバーとも言われ、強いエネルギーを持つ特殊な数字のひとつとして理解されています。

「11」の数字の持つ意味として、

・鋭い感受性と洞察力
・直感/インスピレーションでの判断
・幅広い人間関係
・エネルギッシュ/精力的
・コミュニケーター(繋ぐ人)
・達成を目指す
・高い理想
・サポート

といったものがありますが、数秘学においてこのタイプの方は、自分のキャリアアップや成功の為よりも、理想に向かって努力したり、他者の為に尽力するパワーのある人、ということになっています。

そのパワーとインスピレーションを持って不可能を可能にする力を持つ人ということで、とてもパワフルさ、感性といったものを感じさせる数字ですね。

「1」という数字自体、始まりの強いエネルギーを持ち合わせていますが、「11」はそれがダブルということで、さらにエネルギッシュさを感じさせます。

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11月11日。
そういう意味では、インスピレーション力が高まるエネルギッシュな日とも言えます。

今日はなにか新しいことを始めるのにいいかもしれません。
そして、心静かに、魂や体に感じる11・11のエネルギーを受け取って、混沌とした激動の時代に、明日へ向かって希望の扉を開くパワーにしたいものです。

2015年11月11日リンクURL

あれから3年~日本は  いま

帰宅難民としてさまよっていた最中の出来事は、
その時は必死で、考える余裕もなかったが
いま振り返ると、不思議なことがたくさんある。

白いハイビスカス

白いハイビスカス

駅前で、2~300名はいたと思われるタクシー待ちの行列は、
整然としていて、誰も先を争ったり、押し合いへし合いする者もいなかった。

駅に入ろうとする人たちを押しとどめる警備員に
文句を言ったり、強引に中へ入ろうとするような人もいなかった。

誰もが、身体を休めたり、寒さを避けるために、
営業中のレストランや居酒屋、ファーストフード店へ入りたかったはずだけど、席を奪い合う様子もなかった。

被災地でも、津波に家ごと流され、3日目にやっと救助されたお年寄りが、手を差し伸べる救助隊員に、「ありがとう。私はいいから他の人から先に助けてあげて」と言ったという。

あの混乱の中、集団パニックや暴動が起こっても不思議ではない。
日本以外の国なら、きっと暴動が起こっただろうと、そうした日本人の姿が世界から称賛された。

芙蓉の花

芙蓉の花

 

あれから3年。
いま日本は世界からどんな目で見られているだろうか。

いまだに30万人近い人々が仮設住宅で暮らし
原発の汚染水は海に垂れ流し、メルトダウンした原子炉は空中に放射能をまき散らし続けている。

なのに政府は、復興住宅が資材不足や人手不足で
いまだ3%も出来上がっていないというのに、オリンピックの東京開催に浮かれ、人手も資材もオリンピック関連設備の建設に引き裂かれようとしている。

さらに、福島の原発事故がいまだ収束のめどさえも立たないのに、早々と原発の再稼働を決め、
臆面もなく「世界一の技術」とかうそぶいて、日本制の原発を外国へ売り込むなど、破廉恥なことと言うほかない。

海洋博公園にて

海洋博公園にて

放射能汚染で、いまだにふるさとの地へ帰れない福島の人々。その気持ちは、到底第三者なんぞが言葉で表現できるものではない。

しかし、戦後70年近く、我が家を集落ごと米軍基地の金網に囲われたまま、いまだに故郷に帰ることができない沖縄の人々には共感することができる、と思うこのごろである。

 

2014年3月18日リンクURL

あれから3年~あの日私は (Ⅱ)

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帰宅難民であふれたホテルのロビー。
大勢の人がいるのに、誰も話す人はなく、静まり返っていた。
目をつぶったが、眠れるはずもない。

身の安全を確信してホッとしたからか
今度は、昼間テレビで見た、津波に襲われる町の様子が浮かんできて
一層目が冴えてくる。

想像を絶する光景だった。表現する言葉もない。

津波に流されていたあの家の中に、人はいなかっただろうか?
車で逃げていた人たちは、逃げ切ることができたのだろうか?
山形と岩手に住む友人は無事だろうか?

私が東京に来ていることで、家族や友人が心配しているだろうなぁ。

さまざまな思いが頭の中を駆け巡ったが
不思議なことに恐怖心はほとんどなかった。

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感心したのは、このホテルの対応だった。
場所だけでなく、毛布やシーツ、バスタオルなど、ありったけの布類を提供し、気分がすぐれない人のために、水や薬なども手配、 3人のスタッフが徹夜で対応にあたっていた。

夜中も3時くらいになると、家族などが迎えに来て、 ロビーも少しずつ人が減ってきた。

私の隣の人も、 息子さんらしい人が迎えに来て、寒さ除けにかぶっていたものを全面的に私に譲って、帰っていった。

明け方近く、地下鉄の一部が動き出し、ホテルのスタッフが、新橋までの乗継ぎかたを丁寧に教えてくれた。

池袋から新橋まで、いつもの倍以上の時間をかけて、宿泊予定のホテルにたどり着き、ベッドに倒れこんだのは、朝も6時を過ぎていた。

 

 

 

 

 

2014年3月14日リンクURL