あれから3年~日本は  いま

帰宅難民としてさまよっていた最中の出来事は、
その時は必死で、考える余裕もなかったが
いま振り返ると、不思議なことがたくさんある。

白いハイビスカス

白いハイビスカス

駅前で、2~300名はいたと思われるタクシー待ちの行列は、
整然としていて、誰も先を争ったり、押し合いへし合いする者もいなかった。

駅に入ろうとする人たちを押しとどめる警備員に
文句を言ったり、強引に中へ入ろうとするような人もいなかった。

誰もが、身体を休めたり、寒さを避けるために、
営業中のレストランや居酒屋、ファーストフード店へ入りたかったはずだけど、席を奪い合う様子もなかった。

被災地でも、津波に家ごと流され、3日目にやっと救助されたお年寄りが、手を差し伸べる救助隊員に、「ありがとう。私はいいから他の人から先に助けてあげて」と言ったという。

あの混乱の中、集団パニックや暴動が起こっても不思議ではない。
日本以外の国なら、きっと暴動が起こっただろうと、そうした日本人の姿が世界から称賛された。

芙蓉の花

芙蓉の花

 

あれから3年。
いま日本は世界からどんな目で見られているだろうか。

いまだに30万人近い人々が仮設住宅で暮らし
原発の汚染水は海に垂れ流し、メルトダウンした原子炉は空中に放射能をまき散らし続けている。

なのに政府は、復興住宅が資材不足や人手不足で
いまだ3%も出来上がっていないというのに、オリンピックの東京開催に浮かれ、人手も資材もオリンピック関連設備の建設に引き裂かれようとしている。

さらに、福島の原発事故がいまだ収束のめどさえも立たないのに、早々と原発の再稼働を決め、
臆面もなく「世界一の技術」とかうそぶいて、日本制の原発を外国へ売り込むなど、破廉恥なことと言うほかない。

海洋博公園にて

海洋博公園にて

放射能汚染で、いまだにふるさとの地へ帰れない福島の人々。その気持ちは、到底第三者なんぞが言葉で表現できるものではない。

しかし、戦後70年近く、我が家を集落ごと米軍基地の金網に囲われたまま、いまだに故郷に帰ることができない沖縄の人々には共感することができる、と思うこのごろである。

 

2014年3月18日リンクURL

あれから3年~あの日私は (Ⅱ)

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帰宅難民であふれたホテルのロビー。
大勢の人がいるのに、誰も話す人はなく、静まり返っていた。
目をつぶったが、眠れるはずもない。

身の安全を確信してホッとしたからか
今度は、昼間テレビで見た、津波に襲われる町の様子が浮かんできて
一層目が冴えてくる。

想像を絶する光景だった。表現する言葉もない。

津波に流されていたあの家の中に、人はいなかっただろうか?
車で逃げていた人たちは、逃げ切ることができたのだろうか?
山形と岩手に住む友人は無事だろうか?

私が東京に来ていることで、家族や友人が心配しているだろうなぁ。

さまざまな思いが頭の中を駆け巡ったが
不思議なことに恐怖心はほとんどなかった。

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感心したのは、このホテルの対応だった。
場所だけでなく、毛布やシーツ、バスタオルなど、ありったけの布類を提供し、気分がすぐれない人のために、水や薬なども手配、 3人のスタッフが徹夜で対応にあたっていた。

夜中も3時くらいになると、家族などが迎えに来て、 ロビーも少しずつ人が減ってきた。

私の隣の人も、 息子さんらしい人が迎えに来て、寒さ除けにかぶっていたものを全面的に私に譲って、帰っていった。

明け方近く、地下鉄の一部が動き出し、ホテルのスタッフが、新橋までの乗継ぎかたを丁寧に教えてくれた。

池袋から新橋まで、いつもの倍以上の時間をかけて、宿泊予定のホテルにたどり着き、ベッドに倒れこんだのは、朝も6時を過ぎていた。

 

 

 

 

 

2014年3月14日リンクURL

あれから3年~あの日私は

私は被災者ではないけれど

あの日のことは一生忘れないだろう。

シークワァーサーの花 (小さな実もついている)

シークワァーサーの花
(小さな実もついている)

 

仕事で出かけた池袋のオフィスビルの中で最初の揺れに遭遇した。

 

ちょうど仕事が終わって、相手の方と雑談をしていたときだった。

あんな大きな揺れは初めての経験で、はじめは何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 

余震が続く中、窓越しに道路向かいの細長いビルが、しなりながら揺れるのを見て

地震の大きさがわかった。

2時間ほどテレビ画面にくぎ付けになっていたが

それはまるで映画でも見ているようで、とても現実に起こっていることとは

どうしても思えなかったのを覚えている。

 

「揺れが大きかったので、東京でも電車が止まるかもしれません。

早めにホテルへ戻ったほうがいいですよ」と

事務所の人に促されて、池袋駅に向かった。

 

しかし、すでに電車は止まり、駅前にはタクシーを待つ人の列が

200名ほども連なっていた。

道路は極端に渋滞し、2時間待ってもタクシーは一台も来なかった。

 

知る人とてなく、携帯もつながらず、地理も不案内の中

この夜宿泊するはずだった新橋までの行程も検討がつかない私は

寒さの中で、ただ立ち尽くすしかなかった。

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見ていると、行列の中に、妊娠中の女性や、赤ちゃんを連れたお母さん

身体の不自由なお年寄りも少なくない。

 

せめて風よけに駅の建物(地下道)の中に入れてくれたらと思ったが

JRの駅は非情にも、そういう人たちの眼前でもシャッターを下ろし

警備員が、詰め寄る人々を押し返していた。

そういう規則でもあるのであろう。

 

タクシーをあきらめ列から離れたときは、あたりを夕闇が包んでした。

とにかく、「今夜一晩を過ごせる宿」をと、駅周辺のホテルをいくつかあたってみたが

すでにどこも満室になっていた。

 

朝から何も食べていないにも関わらずあまり空腹は感じなかったが

寒さにはこれ以上耐えられそうにもなかった。

周辺のファーストフードの店や居酒屋などは、やはりどこも人でいっぱい。入る余地はない。

 

そのとき、ふと、池袋駅のすぐそばに琉球料理の店があり、一度会食したことがあったのを思い出した。

行ってみた。路地の奥で目立たない場所にあるせいか、幸いなことにすいていた。

やっと温かい食事にありつけた。

常連客らしい人たちが「電車が動くのを待っている」と話していた。

2時間ほどして、この店も11時には閉めなければならないという。

また、寒空の下に出た。駅前のタクシー待ちの行列はまだ続いていた。

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駅から歩いて4~5分のところにかなり大きなシティホテルがあるのを知っていたので

例え一泊何万円といわれても泊まるしかない。と意を決し、ダメもと行ってみた。

ホテルの中は温かかったが、ホテル内にあるいくつかあるレストラン、喫茶店の椅子はもちろん

ロビーや階段まで、足の踏み場もないほど大勢の人が、直に床に座り込んだり横になったりして眠っていた。

 

ホテルの従業員らしき人が、毛布やシーツ、はてはテーブルクロス、

カーテンの余り布らしきものまで引っ張りだしてきた、という感じで人々に対応していた。

私はロビーの片隅に隙間を見つけて座り込んだ。

隣の人(年配の女性)が、自分がくるまっていたていたテーブルクロスらしき固い布を

半分めくって私を入れてくれた。

 

花は咲く ただ咲くだけ

花は咲く ただ咲くだけ

「ありがとうございます」と言ったが、声にならず、ただ涙がこぼれた。

その人は笑顔でうなずいて、目をつぶった。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

2014年3月12日リンクURL