あの日、私は仕事で上京し、池袋にある仕事先のビルの一室で、大震災に遭遇した。電車が止まり、宿泊先の新宿に戻ることができず、タクシーを待って2時間以上も行列に並んだ挙句、池袋駅近くのあるホテルのロビーの一角で、大勢の人たちに交じって床に座り込み、寒さに震えながら一夜を明かす経験をした。帰宅難民、帰宅困難者ということばは、後で知った。
<3・11新宿駅の帰宅困難者:東京都ホームページより>
そんな中で不思議に恐怖心はほとんど感じなかった。それは、大勢の人たちがいたが誰も騒ぐようなこともなく、みんなが冷静に行動していたことも大きい。が、ある意味達観の境地だったのかもしれない、といまは思う。なるようにしかならないという、うちなぁ人の「なんくるないさ」精神が支えてくれたような気もする。
震災後6年目の2017年5月、念願だった被災地訪問を、関東や東北に住む友人たちの力を借りて実現した。フクシマと、宮城県南三陸町と石巻市を訪ねた。
フクシマを案内してくれた方は、行く先々で放射能を測定した。ここは除染が済んで人々の日常生活が始まっている地域だった(だから私たちも行けた)が、国が定める基準値を大きく超えていた。
国の予算で建てられたという原発事故を伝える資料館を訪問。立派な建物の中にきれいな展示が並んでいたが、原発事故の本質を見事に覆い隠すシロモノになっていた。フクシマはすでに復興が成ったかのような印象さえ与えかねない。
震災復興オリンピックが、いつの間にかコロナ克服オリンピックに変貌してしまったように、国の原発事故隠ぺい、誤魔化し、その場限りは当時すでに始まっていたのだ。
いたるところに(民家のすぐそばにも)野積された汚染土の詰まったフレコンバッグの山ができていた。いまはどうなっているだろうか?
汚染土を焼却するごみ処理場から立ち上る煙は放射能も一緒には吐き出す。その夜開かれた学習会では、周辺の動植物に奇形などの異変が起きていることが、映像をもって報告された。次々と汚染土を運び込むダンプの列に、辺野古ゲート前の風景が重なって身震いがした。
南三陸町では、住宅地の嵩上げ工事が進んでいた。嵩上げされた土地からは海は全く見えなくなる。ふるさとの風景が一変するであろうことは一目瞭然だった。海とともに生きてきた人々の街である。いったいどれだけの人が、このふるさと喪失を受け入れられるだろうかと、思わずにはいられなかった。
テレビ画面で何度も見た「防災庁舎」の無残な姿を目の当たりにした。周辺のがれきはすでに片付けられていたが、津波の破壊力の凄まじさを実感させられる。
全児童が津波の犠牲になった石巻市の大川小学校
無残すぎて言葉も出ない。慰霊碑に花を捧げることが精いっぱいの行動だった。
被災した避難民を何百人も何カ月にも渡って無料で受け入れ続けたという”ホテルKANNYOU”に泊めてもらった。ロビーから見える海は穏やかで、帆立貝養殖の筏が波に揺られてのどかに浮かんでいた。命をはぐくむ海が、ときには命を破壊するときもあるのだということを、私たちは忘れてはいけない。
10年たってなお避難暮らしの被災者4万人超、死者・行方不明不明者2万2200人、理不尽にも一瞬にして大切な家族を奪われた遺族は、せめて一辺の骨のかけらでもと捜索を続ている姿が報道されている。戦後70が過ぎてもなお、家族の遺骨を探し続けている沖縄戦の遺族の思いに通じる。
あの震災を期に、文明に浮かれて地球を汚し続けてきた日本人(人類全てかもしれないが)は変わるのではないかと言われた。つながり合い助け合って暮らす、真に心豊かな社会が展望された。
しかし、私たちはまた同じ過ちを繰り返している。原発の再稼働がのその最たるものだ。原発事故がなければ、被害はここまで大きくならなかった。自らが住む命の星を、際限なく汚し続けている。その結果がコロナパンデミックである。果たして今度は変わることができるだろうか!