チョウ類研究者の宮城秋乃さんが、米軍への抗議行動が威力業務妨害とされ、在宅起訴されたことに、県内外135の市民団体が名を連ね抗議、起訴を取り下げるよう訴えた。
国家権力の無法、横暴がまかり通る沖縄で、それを許さないと立ち上がる市民らの抵抗である。 <現場で抗議行動の様子を説明する宮城秋乃さん>
<1月6日 琉球新報>
<宮城秋乃さん不当起訴に対する抗議文>
20日(土)は、南風原文化センターで行われた「ペ・ポンギさん30年忌の追悼シンポジウムに参加した。主催者(沖縄恨之碑の会)の予想をはるかに超える140人余が詰めかけ、関心の高さが示された。
パネリストには、一番身近でぺ・ポンギさんに晩年まで寄り添った金 賢玉(キム・ヒョノク)さん、長年、慰安婦・女性の人権問題に取り組んでいる高里鈴代さん、「ハルモニの遺言 ペ・ポンギさんの戦後」を新聞に長期連載した記者・松永勝利さんが登壇した。
金 賢玉さんは、『1974年にぺポンギさんに出会った。騙されて日本に連れてこられ、日本軍の「慰安婦」とされたうえ、戦後は異郷に捨て置かれるという過酷な戦後を一人で生き抜いてきたぺ・ポンギさんの心は、当初かたくなに閉ざされていた。同胞として気長に交流する中で、徐々に心を開いてくれた』と、エピソードの数々を語った。
そして、最後に「日本はまだ戦後処理をしていない。早く解決できるようにお互いに努力していきたい」と発言を締めくくった。
ぺ・ポンギさんを取材、新聞に長期連載をした松永勝利さん。「ぺ・ポンギさん本人や、金 賢玉さんなど取材・連載する中で、拒否されたり、叱られたりしながら多くのことを学んだ。 ぺ・ポンギさんが、戦後どんな思いで、一人の女性として生き延びてきたかを、最大限伝えたいと思った」と。
当時、那覇市の婦人相談員としてぺ・ポンギさんと出会った高里鈴代さんは、戦時中の慰安所のこと、いわゆる「慰安婦問題」の発端となったぺ・ポンギさんの存在の重要性、これまでの活動を具体的に報告。会場からの疑問、質問に答えた。
また会場から、ペ・ポンギさんが那覇市に住居を移した後、生活保護のケースワーカーとしてかかわった那覇市の久場副市長からの報告があり、ぺ・ポンギさんの当時の様子が伝えられた。
私も会場から発言を求め、ぺ・ポンギさんとは直接お会いする機会はなかったが、渡嘉敷島で生まれ育った者として、間接的ながら浅からぬご縁があったこと、現在アリランの碑を訪ねて島を訪れる平和学習のガイドをつとめていることなどを報告した。
シンポジウムは休息をはさんで3時間にわたり、内容の濃いつどいとなった。
司会を務めた恨の碑の会の安里英子さんは「20回忌の追悼集会も行ったが、今回は次の40年忌に向けて、この問題を若い人たちに橋渡しするつどいと位置付けて取り組んできた」と述べ、次世代への継承に期待した。
私が「沖縄のマザーテレサ」と呼ぶ女性がいる。読谷村で「白い家」という教会を運営する伊藤嘉子牧師。40年来の友人だが、考えること、行動力が壮大で、いつも驚かされる。世界中の弱い立場の人々に想いを寄せ、愛をそそぎ、献身的な活動をしている姿は、まさにマザー・テレサだ。
コロナ・パンデミックは、弱く貧しい人ほどさらに苦境に追い込まれる状況にある。コロナ禍でボランティアやチャリティ活動も低迷する中で、こんなときだからこそと、今年も2500人規模の大イベントを開催すると案内がきた。
クリスチャンでなくても楽しめるイベントです。あなたもご協力ください。
「白い家」では、これまでこんな活動をしてきました。
沖縄在住で、チケットご入用の方は、私にお声掛けください。