昨日(11日)は、沖縄キリスト教学院大学の新入生研修で、平和学習の講師依頼があり、渡嘉敷島に行ってきた。
沖縄キリスト教学院大学は、20数年前から新入生研修を渡嘉敷島で行っているそうで、国立青少年交流の家に宿泊して、平和学習を中心とした一泊二日のオリエンテーションが行われている。その初日に、渡嘉敷島の「集団自決」について話してほしいとの依頼である。
これまでは、学院の元学長で、渡嘉敷島での「集団自決(強制集団死)」の体験者である金城重明さん(昨年7月逝去)が講話をなさっていたと伺い、内心尻込みしたが、いろいろしがらみもあって引き受けざるを得なかった。
当初、90分の講演と言われ、3日がかりで90分分のパワーポイントを作成して行ったら、当日講話の直前になって40分とわかり、どう話を端折ったらいいのか戸惑いつつ、金永秀学長のとりなしで60分話をさせていただいた。金学長は、セレモニーでのご自分のあいさつを短くして、私に時間を譲ってくださったのだ。
子どもの頃、私が育った渡嘉敷島は、浜辺で砂をひと掻きもすればエビが飛び出し、磯ではウニがすぐに弁当箱のいっぱいになり、カニや小魚、釣り糸を垂れればいくらでも魚が釣れた。山では季節ごとにヤマモモ、野イチゴにバライチゴ、クワの実、椎の実がたわわに。田んぼは稲穂が畔を枕に実り、畑では年中野菜が何でもとれた。
これら自然の恵みは、もちろんただで、お金がなくても食べるものには困らない暮らしがあった。人々は、あるものをみんなで分かち合い、助け合って暮らししていた。私が生まれ育ったのは戦後だが、戦前はもっともっと自然豊かであっただろう。
そんな平和な島に戦がやってきて、「集団自決」というさながら地獄の惨劇に襲われたのだ。金城重明さんの体験を例に、なぜ集団自決は起こったのか、「慰安所」や、米軍駐留下で頻発する「性暴力」から「軍隊と女性」に視点を据えて、力と力の対決である武力では、平和は創れないと訴えた。
フィールドワークでは、「自決地跡」の碑の前で、金学長が当時の状況を解説した。
金学長が、「23年渡嘉敷島に通っているが『慰安所』跡には行ったことがない」とのことで、ご案内した。