金城重明さん死去 ~ 渡嘉敷島の「集団自決(強制集団死)」を証言

 金城重明(きんじょうしげあき)さんが亡くなられた。渡嘉敷島阿波連区の出身。私たち島人には「じゅうめいさん」のほうがなじみがある。

 <7月24日 琉球新報  ↑>

 日本軍から共生共死を強いられた沖縄戦。逃げ場のない小さな島で、海を埋め尽くすほどの米軍艦に取り囲まれ、上陸してくる米兵を目の当たりにして、人々は自ら死ぬしか道はなかった。(日本軍監視の下捕虜になることも許されなかった)

 16歳だった金城さんは、兄と二人、号泣しながら母親と妹、弟を手にかけた。それが「愛情」だと信じていた。自らは、「どうせ死ぬなら、にっくき米兵を一人くらい殺してから死のう」と、同級生と二人、山中を彷徨っているうちに米軍の捕虜となって生き延びることになった。

 「集団自決」の実相を明らかにするため、身を切るような過酷な体験を語り継いできた。私自身もこれまでに3度、その貴重なお話を直接伺う機会を頂いた。しかし、淡々と話されているように見えて、それがいかに痛み・苦しみを伴うことだったかを、改めて思い知らされる出来事があった。

 孤児になった金城さんは、戦後キリスト教の牧師さんと出会って、沖縄本島で学校に通わせてもらい、成長した。例え「白玉の塔」の慰霊祭などで渡嘉敷に渡ることはあっても、島の実家に残ったお兄さんに会いに行くことはなかった。

 二人が再会したのは、あれから70数年がたったほんの2~3年前、余命が告げられたお兄さんの病床を見舞った。家族を全員失い、たった二人だけ残された肉親。会いたくなかったはずはない。その胸中を思うと、いまも胸が締めつけられる。

 心からご冥福をお祈りいたします。神のみむねに抱かれ、心安らかな日々が訪れますように…。

 

 <7月24日 琉球新報 ↑↓>

 

 

2022年7月24日リンクURL

16日祭の渡嘉敷島

 いつもは辺野古へ行くはずの水曜日だが、昨日(16日)は、ジュウルクニチー(16日祭)で渡嘉敷島に帰省した。

 16日祭は、旧暦1月16日のグソーヌショウグヮチ(後生・あの世のお正月)である。先祖を大切にする沖縄では、現世の正月には帰らなくても、16日祭に帰らないと、「親不孝者」と言われる。

 コロナ禍で帰省もままならない昨今、家族を抱える他の姉妹らは帰省できず、昨年は私が1人でお参りしたが、今年は、末の妹と帰ることが出来た。


 

 まずは、一族の始祖を祀ると言われるウル墓にお参りする。ウルとはサンゴ礁のこと。「うるま島」の「うる」である。集落北側の山すそに一枚の大きなテーブル珊瑚が置かれただけの素朴なお墓。想像するしかないが、たぶん古代一般的だった風葬の地であったと思われる。(近年、表出した遺骨の一部を一か所に集めてウルの傍らにお祀りしたと聞いている。)

 始祖を同じくするいくつかの家族が、それぞれに香炉を置いてお参りしてきたが、そこへ祀られている人々がどういう人たちで、どういうつながりがあるのか、私たち世代は具体的なことは何も知らない時代になっている。祖父母や親たちの習慣を受け継いで、お参りを続けている。 

 続いて、4代前からご先祖と両親の眠る亀甲墓にお参り。その中で私たち兄弟姉妹が顔を知るのは、 両親と祖父母、曾祖母までである。

 渡嘉敷島では親族による門中墓ではなく、そのときお墓が必要な複数の家族が寄り集まってつくる「もあい(模合)墓」、いわゆる「寄り合い墓」が一般的であるようだ。我が家のお墓も祖父母の時代に5、6軒が寄り集まってこのお墓をつくったそうだが、多くが沖縄本島に引き上げて、現在もここを使っているのは2軒だけになっている。 

 お参りの最後に、ウチカビと呼ばれるあの世のお金を燃やして送金する。あの世も、お金がないと暮らせない資本主義社会なのだろうか?

 小雨が降り、ウチカビも湿りがちだったが、勢いよく燃えて灰が空高く舞い上がった。送金がちやんと届き、ご先祖様が喜んでいる証しなのだという。

 沖縄には春・秋のお彼岸に墓参りをする習慣はなく、また渡嘉敷島にはシーミー(清明祭)がないことから、先祖・肉親の墓参りができるのはこの日(16日祭)をおいて他にない。「ジュールクニチーに帰らないと親不孝」と言われる所以である。

 コロナ禍で観光客もほとんどなく、往復に乗った高速艇もガラガラ状態。船着き場の案内板も、見る人もなく寂しそうだった。

 島の唯一の産業である「観光」の落ち込みは、人々の暮らしを直撃している。やはり地に足をつけた「産業」「生活基盤」を生み出す必要があるのではないだろうか。自然も、人間の命さえも金銭に替えて価値を測る資本主義社会、「これでいいのか?」と、コロナウイルスに問い質されている気がしてならない。

 

 

2022年2月17日リンクURL

古からの海上交通の要所 ~ 渡嘉敷時島 ➁

 

 西展望台からケラマ海峡を望む。この日はあいにくの曇り空で残念ながらいつもの抜けるよう碧い海の輝きはお預けとなったが、それでもこの絶景にはいつもながら息をのむ。

 ケラマ諸島の島々を繋ぐこの海は、単に美しいだけでなく、琉球王朝時代の古から、(現在の)中国はもとよりタイ、カンボジアなどとの国際的な外交・交易航路の要所でもあった。

 国立青少年自然の家東側高台にある『赤間山ヒータティヤ(烽火台)跡の碑』

<航海を見守る古の狼煙台>

 江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として始めて烽火(のろし)を考え、中山支配下の各間切(まじり)や周辺の島々に烽火台を建てました。その中の一つが、現在赤間山の頂上に残っている烽火台跡です。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、渡嘉敷島のこの赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。

 
 烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは、一筋の煙、2隻のときは、二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は、三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたきかたがあったのです。唐船の時代、慶良間の 島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。

 これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて、島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山のヒータティヤーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため、這根樹(はいねじゅ・ヒッチェーシ)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。(渡嘉敷村公式ホームページより  抜粋)

 しかし、皮肉なことに沖縄戦ではこの航路が、アジアから南下してくる米軍を導き、慶良間諸島上陸、そして沖縄全体へと戦火を広げていくことになる。サンゴ礁の海はいたるところに環礁があり、近海の航路を熟知していないと座礁する危険性が高い航海の難所、慶良間海峡で2~300百隻の米軍艦がひしめくなかでも事故が起こらなかったのはなぜか?

 江戸末期、日本の開国を求めてやってきたペリー艦隊は、琉球をベースキャンプにして日本に向かった。そのときにつくられた海図が沖縄戦でも使われたのだという。

 秋風がたち始めたこの日、アリランの碑入り口にある大きなソテツに、雄しべに抱かれるようにたくさんの赤い実が熟れていた。

 

2021年10月19日リンクURL