あれから3年~あの日私は

私は被災者ではないけれど

あの日のことは一生忘れないだろう。

シークワァーサーの花 (小さな実もついている)

シークワァーサーの花
(小さな実もついている)

 

仕事で出かけた池袋のオフィスビルの中で最初の揺れに遭遇した。

 

ちょうど仕事が終わって、相手の方と雑談をしていたときだった。

あんな大きな揺れは初めての経験で、はじめは何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 

余震が続く中、窓越しに道路向かいの細長いビルが、しなりながら揺れるのを見て

地震の大きさがわかった。

2時間ほどテレビ画面にくぎ付けになっていたが

それはまるで映画でも見ているようで、とても現実に起こっていることとは

どうしても思えなかったのを覚えている。

 

「揺れが大きかったので、東京でも電車が止まるかもしれません。

早めにホテルへ戻ったほうがいいですよ」と

事務所の人に促されて、池袋駅に向かった。

 

しかし、すでに電車は止まり、駅前にはタクシーを待つ人の列が

200名ほども連なっていた。

道路は極端に渋滞し、2時間待ってもタクシーは一台も来なかった。

 

知る人とてなく、携帯もつながらず、地理も不案内の中

この夜宿泊するはずだった新橋までの行程も検討がつかない私は

寒さの中で、ただ立ち尽くすしかなかった。

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見ていると、行列の中に、妊娠中の女性や、赤ちゃんを連れたお母さん

身体の不自由なお年寄りも少なくない。

 

せめて風よけに駅の建物(地下道)の中に入れてくれたらと思ったが

JRの駅は非情にも、そういう人たちの眼前でもシャッターを下ろし

警備員が、詰め寄る人々を押し返していた。

そういう規則でもあるのであろう。

 

タクシーをあきらめ列から離れたときは、あたりを夕闇が包んでした。

とにかく、「今夜一晩を過ごせる宿」をと、駅周辺のホテルをいくつかあたってみたが

すでにどこも満室になっていた。

 

朝から何も食べていないにも関わらずあまり空腹は感じなかったが

寒さにはこれ以上耐えられそうにもなかった。

周辺のファーストフードの店や居酒屋などは、やはりどこも人でいっぱい。入る余地はない。

 

そのとき、ふと、池袋駅のすぐそばに琉球料理の店があり、一度会食したことがあったのを思い出した。

行ってみた。路地の奥で目立たない場所にあるせいか、幸いなことにすいていた。

やっと温かい食事にありつけた。

常連客らしい人たちが「電車が動くのを待っている」と話していた。

2時間ほどして、この店も11時には閉めなければならないという。

また、寒空の下に出た。駅前のタクシー待ちの行列はまだ続いていた。

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駅から歩いて4~5分のところにかなり大きなシティホテルがあるのを知っていたので

例え一泊何万円といわれても泊まるしかない。と意を決し、ダメもと行ってみた。

ホテルの中は温かかったが、ホテル内にあるいくつかあるレストラン、喫茶店の椅子はもちろん

ロビーや階段まで、足の踏み場もないほど大勢の人が、直に床に座り込んだり横になったりして眠っていた。

 

ホテルの従業員らしき人が、毛布やシーツ、はてはテーブルクロス、

カーテンの余り布らしきものまで引っ張りだしてきた、という感じで人々に対応していた。

私はロビーの片隅に隙間を見つけて座り込んだ。

隣の人(年配の女性)が、自分がくるまっていたていたテーブルクロスらしき固い布を

半分めくって私を入れてくれた。

 

花は咲く ただ咲くだけ

花は咲く ただ咲くだけ

「ありがとうございます」と言ったが、声にならず、ただ涙がこぼれた。

その人は笑顔でうなずいて、目をつぶった。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年3月12日リンクURL

県庁ロビーを埋め尽くした1000人~

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仲井間知事の辺野古埋め立て容認に抗議して、 25日に続いて、今日も2000人が県庁を包囲した。

包囲行動終了後
県民に対する直接説明を求めて
1000人の市民・県民が、県庁ロビーを埋め尽くした。

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この日、午後3時から容認発表の記者会見が、県庁内で行われる予定だったが、 県民の強い怒りに臆した仲井間知事は 登庁することができず、
知事公舎に閉じこもったまま、機動隊に守られて、 予定していた記者会見を行い、「辺野古埋め立て容認」を発表した。

 

 

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2013年12月27日リンクURL

山崎豊子さんと沖縄

作家・山崎豊子さんが亡くなられた。

新聞記者時代に培った取材力を駆使して
社会の闇に切り込み、不正義・不条理を鋭く突いた作品が 持ち味だった。

まだ新聞社に女性の記者が少なかった1944年に毎日新聞入社、
今なお男社会の権化のようなマスコミ界において
男性ならしなくていい苦労をし、いわれのない性差別を受けながら記者時代を過ごし、
後に作家としての立ち位置を築いてこられたのではないかと想像する。

編集者たちから取材の鬼と称されているように
テレビドラマ化された「大地の子」を書いたときは
中国に3年も暮らしながらこの作品を書き上げたという。

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沖縄をテーマにした「運命の人」を書いた時も、長期間沖縄に住み、たくさんの人に会い、さまざまな場所に行き、民族、文化、歴史など徹底的に取材しつくしたという。

大好きな作家だったし、仕事柄、けっこう著名人(芸能・文化人、政治家など)に会う機会に恵まれていたが、山崎さんにはついにお会いする機会がなかった。

聞けば、マスコミ嫌い、というか「作家は原稿用紙の升目を埋めるのが仕事」という 考え方の方で、めったにテレビや雑誌の取材には応じなかったらしい。

「運命の人」は、沖縄返還の際の 日米政府による「沖縄密約事件」を題材にした長編で、         沖縄に関心を持ったのは、 「ひめゆり平和資料館を訪れたのがきっかけだった。
語り部の証言に涙し、今まで知らないでいたことを悔い
沖縄を書かなければという思いが募ってきた」(作家の使命ー私の戦後より)

「運命の人」では、沖縄の犠牲の上に成り立つ日本の繁栄の欺瞞性をついた政治部記者に心を寄せつつ、かつて自らも身を置いた組織ジャーナリズム(新聞)への批判も込めた私たちは沖縄に迷惑をかけたのではない。犠牲を強いたのです」(共同通信記事より)

「沖縄に住んでこそ実感できたこの不条理を、もっと国民が知らなければならない」琉球新報 5日付朝刊・金口木舌より)と語っている。

いま、このような感性を持った人は、マスコミ界だけでなく
この国の行方を牛耳る官僚や政治家の中にはいほとんどない。

ホウオウボク(鳳凰木)

ホウオウボク(鳳凰木)

奇しくも昨日(4日)は、日米の外交・防衛担当閣僚による安全保障協議会(2プラス2)が開かれ、
「辺野古は唯一の解決策」と、沖縄にさらに犠牲を強いることで、日米の安全保障を強化する取り決めをしたという報道が、山崎さんの記事と同じ紙面を埋めた。

山崎豊子さんにはもっと長生きして、
沖縄のことを書き続けてほしかった。

心からご冥福をお祈りします。

2013年10月4日リンクURL