軍事政権下の人権侵害と闘うアルゼンチン「5月広場の母たち」を迎えて

アルゼンチンの軍事政権時代(1976年~83年)、政権に抵抗する人々に対する弾圧で、家族を連れ去られ(強制失踪)殺された女性たちが、その真実解明と責任、処罰を求めて40年以上も闘い続けている。

「5月広場の母たち」と呼ばれる彼女たちは、いまも毎週木曜日にブエノスアイレスの大統領官邸前の5月広場に集まり、抗議行動を行っている。

去る15,16の両日、「5月広場の母たち」のメンバー3人が、来日を機会に沖縄まで足を延ばし、同じく強大な日米の国家権力の人権侵害と闘い続けている沖縄の人たちと交流、軍事政権下の人権抑圧の実態と、人々の抵抗運動について報告した。

軍事政権下、政府に抵抗する人たちが弾圧を受け、3万人余が失踪、生きたままヘリで釣り上げられ、海や川に落とされて殺されるなど、生き残ったのはわずか200名足らずと言われている。

当時24歳の息子を連れ去られ殺されたノラ・コルティーニィスさん(88歳)は、息子を探す中で、同じように失踪した息子や娘を探し続けている多くの女性たちと出会い、「これは個人的なことではない」と気づき、1977年に「5月広場の母たち」を立ち上げた創設メンバーの一人。

記憶、真実、正義を守るゆるぎない活動は、アルゼンチン国内だけでなく、米国、国連などで広く知られている。88歳になった今も、社会心理学者として大学で教えるなど、精力的に活動を続けている。

「(息子たちは)若くて夢があったから政府に立ち向かい闘った人々が連れ去られた。民衆の闘いが継続し、真実が明らかにされ、虐殺に対してちゃんとした裁きと刑があって、私たちが忘れなければ、3万人の犠牲者は安らかに眠れるのです」と、息子カルロスさんの写真を胸に語った。

集会の前に、平和の礎やひめゆりの塔・資料館を訪れたノラさん、「沖縄にもつらい体験があり、今も政府と闘い続けていると知り、皆さんの想いが聞きたかった。権力に立ち向かい闘うこと、そこから答えを見つけることができる」と、沖縄の人たちにエールを送った。

 

ノラさんが頭にしている三角のスカーフは「5月広場の母たち」だけがつけることができる。そこには「私は忘れない、私は許さない、私は和解しない」と書かれている。

来沖メンバーの一人ガルシアさんは、76年に秘密拘禁施設に連行され、性的暴行や拷問を受けながらも「死んでいった多くの仲間たちのことを伝えるために生き残らなければ」という想いで耐え忍び、生還した。「沈黙することで、また同じことを繰り返す」と、沈黙を破り、つらい体験を語り続けることの大切さを訴えた。

軍事政権の人権侵害を記録にして後世に残す活動をしているNGO団体代表・ベロニカさん。「沖縄でも日米両政府からの人権侵害、暴力、特に女性への被害が多くは隠されている。過去に何があったかは、社会の力で残していかなければならない」と強調した。

アルゼンチンでは、これら軍事政権下での人権侵害について、ユネスコの世界記憶遺産として申請し、登録が認められた。

<ひめゆりの塔で花をささげるノラさん、ベロニカさん>

ノラさんの言葉で印象的だったのは「軍事力はすべて経済のため。アルゼンチンの軍事クーデターはアメリカがプログラムした」。この二つは世界中で起こり続ける戦争に共通する真実。安部政権の戦争政策しかり!である。

 

 

2018年10月17日リンクURL

今日はデニーさんの誕生日💖 ~ 今日(10月13日)の辺野古

知事選挙、済州島への旅、原稿書きなどに追われて実に3週間ぶりの辺野古。

「撤回」で工事が止まり、知事選挙を死に物狂いで闘いながら、辺野古ゲート前の座り込み行動も、日曜日を除く毎日休むことなく行われている。

しかし、明日(14日)は豊見城市長、次の週(21日)は那覇市長と重要な選挙がまだ続いていることもあって、人数は少なかった。

それでも、40人ほどはいただろうか。県外からの方々が半分近くを占めていた。島袋文子さん、大城敬人さんも元気に参加していた。

ゲート前では、昨日、就任あいさつで安倍総理と会った玉城デニー知事の話題で持ち切り。一週間以上たっても、知事選勝利の余韻がゲート前を熱く厚く包んでいた。

その玉城デニー知事、1959年10月13日生まれということで、今日が59歳の誕生日、みんなでハッピーバースディを歌って、勝手にお祝いした。

大阪から来た女性。数年も辺野古通いが続いている。「知事選の前と後では、ゲート前の空気が大きく変わった。今朝ゲート前を通る車に手を振っていたら、7~8割の人が、手を振り応えてくれた。みんな笑顔だった。以前は1割も手振り返してくれる人はいなかった。

大阪のほうでも同じ。〝どんなに頑張っても、どうせ辺野古の基地は作られてしまうのに、また行くん?”とよく言われた。でも今度は、がんばってきて!と言われ、うれしかった」

京都の労働組合の皆さん。定期的に沖縄スタディツアーを行っている。今回は3泊4日で40人が参加。ゲート前、浜のテント、海上行動の3班に分かれて行動中。

メンバーの一人は、「沖縄は観光なども含め6度目。ニュースで知っているつもりだったが、実際にスタディツアーに参加してみて、基地の多さ、基地被害の状況など学び、本当は何も知らなかったことを思い知った。実際に来てみないとわからないことをばかり。多くの仲間に、とにかく辺野古へ、沖縄へいくように勧めたい」


名護市議会議員11期連続当選の大城敬人さん、9月議会中も時間を見つけてはゲート前に通う。開会中の名護市議会の傍聴を呼び掛けた。名護市議会では全員が一般質問を行うことが慣例。議員一人当たりの質問回数が、全国一多いという。敬人さんが今議会で156回となり、なんと日本一!

官邸が直接介入のために東京から送り込んで来た官僚(若干32歳)が名護市政を牛耳っている。地域政策部長の椅子に座り、市長に代わってすべての質問に答えているという。

台風24号で吹き飛ばされ、国道に散乱、危険が指摘された工事用ゲートのバリケード(グリーンの目隠しネット)。張り替えられ真新しいものに代わっていた。全く同じものが建てられており、反省はしていないようだ。

2018年10月13日リンクURL

故 翁長雄志 元沖縄県知事 県民葬

故 翁長雄志 前沖縄県知事の県民葬が、今日(9日)午後2時から、那覇市奥武山の県立武道館で行われた。

 琉球古典音楽の生演奏のなか、玉城デニー知事の先導で、妻・樹子さん、長男・雄一郎さんの胸に抱かれた翁長知事の遺影と遺骨が入場。翁長さんの笑顔の写真が飾られた祭壇の前に安置され県民葬が始まった。

 県民葬実行委員長として式辞を述べた玉城デニー知事、故 翁長知事が愛し、知事公舎の石碑に刻んだという琉歌「芯や天冠みてぃ、枝や國廣ぎ、根や地の底に、果てぃん無らむ(幹は天にも達し、枝は国中に広がり、根は地の底に張り巡らされている)」を紹介し、「翁長雄志さん。あなたは本当に、この木のように大きな大きな存在でした」と称えた。会場の参列者の間から拍手が起こった。

 一方、安倍総理の代理で追悼の辞を代読した菅官房長官は「翁長知事は文字通り命懸けで沖縄の発展に尽くされた」と功績に敬意を表した上で、「政府として基地負担軽減に向け、一つずつ成果を出す」と述べると、「嘘つき!」「いつまで沖縄に基地を押し付けるのか!」「帰れ!」との声が多数発せられ、数人が係員に退場させられた。

 また、友人代表として追悼の辞を述べた呉屋守将さんは「翁長さん、県民はあなたの遺志はしっかりと受け継ぎ、力を一つにして新しい知事を選んだ。沖縄は確実に新しい一歩を踏み出しましたよ」と遺影に語り掛けた。

 会場の県立武道館には、開式の1時間も前から多くの参列者が詰めかけ、招待者と一般参加の人々で2400席が埋まった。会場の外では、せめて献花だけでもと訪れた県民が長い列をつくった。

 菅官房長官、衆、参議長、他政府要人も出席する中で、玉城知事はじめ沖縄側の弔辞は、平和な沖縄を求め、国家権力に抗ってきた翁長知事の姿を浮き彫りにした。もしこれが、新基地推進の知事の元で行われたとしたら…どんな県民葬になったのだろうか、と思うと身震いがする。(翁長さんだって成仏できないであろう)改めて、今度の県知事選挙で、玉城デニー知事が誕生したことの意義の大きさを実感した。 

 県知事選、 県民葬が終わり、明日からまた政府が、新たな沖縄いじめに動き出すであろう。こころして立ち向かわなければならない。玉城デニー新知事とともに。

 

2018年10月9日リンクURL