「金は一年、土地は万年」の原点・内灘闘争をうたった歌集「内灘」

友人から芦田高子の歌集「内灘」の復刻版をいただいた。

「内灘闘争」が、かの有名な筵旗「金は1年、土地は万年」の原点であり
日本で初めて米軍基地を撤去させた闘いというくらいのことは知っていたが
この本を読んで、それがいかに表面的な知識だったか恥じると 同時に、辺野古の座り込みに想いが重なり、感銘を受けた。(ただ、短歌は全くの素人だけど…)

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「内灘闘争」は、1953年、石川県金沢近郊の内灘砂丘を接収して米軍の砲弾試射場にするとした政府の計画に、村人の強い反対を押し切って村は1月から4月までの期間限定で応諾、七千五百万円の見舞金をうける。その直後政府は、内灘を永久接収すると閣議決定する。

怒った村人や労組員が県庁に押し掛けたり、反対集会を開いたり、陳情団を東京へ送ったりと抵抗する中、6月に射撃訓練がはじまると
これに対抗して村民7百人が着弾地点の権現森に昼夜を問わず座り込む。
ここから4年にわたる熾烈な「基地とりのけ闘争」がつづくことになる。
闘争のピークには全国からの支援者2千人、警察官三千人が配属されたという。

感動の一つは、座り込みの中心になったのが「おかか様」と呼ばれる漁師のおかみさんたち、つまり女性たちだったことである。
砲声とどろく内灘砂丘に、夜には「おかか」たちが、お互いを励ますために歌う歌声が響いたという。
歌集の表紙に、赤子を抱えて乳を与えている座り込み中の「おかか」たちの写真が胸を突く。「おかか」たちの願いはただ一つ「村の平穏と安心の暮らし」。実にささやかで素朴な願いである。

感動の二つ目は、村の者ではない一人の歌人が、
「おかか」たちと共に座り込みながら歌を詠み、内灘の闘いを広く世に知らしめるもう一つの闘いを担ったことである。

 午前九時試射始まれど射程延長させじと主婦ら座してゆるがず

 砲弾に射たれ死なんといへる老婆の言終わらぬにみな声あげて泣く

 この浜を死守すると砂に座す道に乱れ揺れつつ小判草咲く

闘争の真っただ中に身を置き、民衆に寄り添いながら、その豊かな感性がとらえた情景は、人間味あふれる歌となる。

 めりこみし激励の自動車警官も手をかして押すを笑ひいふこゑ
反対運動の支援のためのトラックが、砂に車輪をとられて動けなくなったのを、
警官も一緒になって押し上げるという、対峙だけではない和気あいあいの情景をとらえている。辺野古でも似たような情景があり、ゲート前の座り込みの日々がよぎる。

内灘闘争は、結局1957年3月30日に試射場が返還され、米軍基地撤去させた最初の例となった。

今回いただいた「歌集・内灘」は、、内灘闘争60周年にあたる昨年2014年に復刻されたもので、作者・芦田高子の子息・星野尚美氏は、しっかり「内灘」と沖縄とのかかわりにふれ、現在の状況にも思いを馳せている。

機会があればご一読下さい。

 

2015年7月22日リンクURL

7・18辺野古アクション~座り込み1年

残念ながら私は、別日程が入っていて参加できなかったが
座り込み1年の辺野古アクションに500名が結集。
午前中は、いつもの早朝行動に、傘やプラカードでゲート前の金網を取り囲み新基地建設に抗議。

午後からは、全国一斉の行動呼びかけに応えて、「アベ政治を許さない」という紙を掲げ、安保関連法案の衆議院強行採決に抗議表明。(以上19日琉球新報より)

19日 琉球新報

19日 琉球新報

さらに、2時からは辺野古総合大学の文化活動をフル動員して
歌や踊り、様々なパフォーマンス、スピーチとにぎやかに「座り込み1年にあたっての決意表明」を展開したということです。

2015年7月20日リンクURL

今日(7月17日)の辺野古

朝6時、ゲート前に到着するあたりから雨が降り出した。
ゲート前での工事車両を止める為の座り込みの行動が始まるころには
土砂降りの雨。

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道路が川に…

道路が川に…

雨の中での機動隊との攻防になった。

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今日は、数名の外国の若者たちの姿が目立っていた。
アメリカ、イタリア、イギリス、フランスなどからの留学生だという。

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アメリカ人の彼は
「今日は貴重な体験をさせていただいてありがとう。
アメリカ人の僕を排除することなく、受け入れてくれたことに感謝します。
ここはアメリカの基地だけれども、アメリカにも武力ではけっして平和は守れないという、みなさんと同じ考えの人たちもたくさんいます。
今日皆さんと経験したこと、沖縄の人たちが、米軍基地があることで辛い思いをしていることを、アメリカの友人や周りの人達に伝えます」

アメリカ人の父親と日本人の母親を持つ彼(右側)は
「東京の新聞などを読んでいて、危険な普天間がなくなり、辺野古に移るなら
いいのではないかと思っていた。しかし普天間の代わりなどではなく、
さらに大きな、機能をレベルアップした強力な基地ができることが分かった。
自分にできることとして、辺野古の本当のことを知らない人たちに伝えて
一緒にまた辺野古へ来たい」と、それぞれ思いを語った。

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毎週金曜日にやってくる読谷村島ぐるみ会議のみなさんからの差し入れは鉢植えの花。名前は分からないという。

<辺野古今月の琉歌>

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集まとるしんか 辺野古浜居とおてぃ

逢ちゃりば兄弟  肝やひとぅち

(集まったみなさんは 辺野古浜で出会ったきょうだい 心はひとつ)

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2015年7月17日リンクURL