梅雨明けの辺野古(6月28日)から

 水曜日はいつもの通り辺野古へ。このところハードスケジュールが続いていたので、身体がだるいくて重い、なんてこと言っていられない。この後も、もう一人私が欲しいと思うくらいこなさなければならないことが目白押しだ。

 

 今日一回目の座り込み。慰霊の日の前後でお休みが続いたので、2週間ぶりの辺野古となる。再度ならぬ9度(たび)コロナが急増しているため、機動隊にごぼう抜きされるのは避けるようにと、リーダーから注意があった。

 10:30、第四ゲートで座り込み。いや今日は立っている人が多かった。私は地べたにベタっと座った。機動隊が立ち退きを促してもなかなか立ち上がれなかったので、「手をお貸ししましょうか?」と言われてしまった。親切か、皮肉か?一応「ありがとう!」と礼は言ってから自ら立ち上がって、ノロノロと規制線の外へ。

 大浦湾では、土砂を山積みした2隻の台船の上で重機がせわしく動いている。慰霊の日前後の休みで遅れた分を取り戻そうとフル回転しているのだろう。

 カメラのピントは合っているのに霞がかかっているように見えるのはPM2・5だろうか。この 数日かなり強力に降りそそいでいるようだ。コロナだけでなく、PM2・5対策のためにも外出の時はマスクをした方がよさそうだ。


 私は午後から沖縄市で別日程が入っているため、二回目の座り込みを前に辺野古を後にした。 

 いつもながら自然の姿に癒され励まされる。(辺野古集落にて:満開の崑崙花)

 

 

2023年6月28日リンクURL

‘23慰霊の日点描 (5) 平和の礎 ~ 子どもたちの姿に「平和」を見た

 戦没者追悼式、国際反戦集会が終わって、もう一度平和祈念公園に戻り「平和の礎」に刻まれる祖父をはじめ、集団自決で命を奪われた渡嘉敷島の人たちの名前に手を合わせた。

 「平和の礎」は、その建立の目的を県民の意志として、こう記す。

 私たち沖縄県民は、去る沖縄戦などで貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表し、悲惨な戦争の教訓を後世に正しく継承するとともに、沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平を願い、太平洋戦争沖縄戦終結の50周年を記念して、ここに「平和の礎」を建立する。1995年6月

  

「平和の礎」周辺は、小さな子ども連れの若い家族であふれていた。

 永遠に燃え続ける「平和の火」の泉で、無心に水と戯れる子どもたちの姿を見ているだけで、こちらも自然に頬が緩み笑顔になる。「ああ!これこそが平和なのだ」と、胸がジンと熱くなった。

 

 

2023年6月26日リンクURL

‘23 慰霊の日点描 (4) ~ 国際反戦沖縄集会

 

県主催の追悼式の後は、市民団体が主催する「国際反戦沖縄集会」に参加した。コロナ禍でも休むことなく、40年の歴史を持つ民衆連帯の集会である。

 今年は、前花雄介さんのミニコンサート、普天間ゲート前でゴスペルを歌う会の歌声はじめ、高江・ヘリパッドいらない住民の会や辺野古ブルーの皆さん、沖縄と同じように米軍に抗う韓国からの平和グループ、他各団体から活動報告が行われた。

 「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」の皆さん

「カヌーチーム・辺野古ブルーの皆さん」

 「韓国で米軍基地に抗い、活動する平和グループの皆さん」

「在沖縄ミャンマー人会のみなさん 」

 今回は特に在沖縄ミャンマー人会の方々が、軍事権下で民主主義と人権弾圧の続くミャンマーの状況を報告。「ウクライナ戦争に世界の注目が集まり、ミャンマーのことは忘れられている。軍政下で人権も自由も奪われ、多くの命がウクライナ以上の悲惨な状況にさらされていいます」と、国際社会の関与を訴えた。

 国際反戦沖縄集会は、毎年「魂魄の塔」隣の広場を会場としている。身元の分からない戦没者の方々を祀った魂魄の塔は、家族や親族がどこで亡くなったかもわからず、遺骨が帰って来ていない遺族の方々が、ここにお参りに来る。今年もたくさんのお花や水などが供えられていた。帰り際魂魄の塔に手を合わせてから、もう一度平和祈念公園の「平和の礎」に向かった。

 

2023年6月26日リンクURL