恩師の旅立ちに 思う

 70代になって、バスやモノレールの中で、席を譲られることが多くなり、いやでも自分の年齢を意識せざるを得ないこの頃であるが、

 自らが老いるだけでなく、人生上り坂のころに、理想、あるいは目標にして背中を追いかけてきた各分野の大先輩たち(親も含め)が、次々と視界から見えなくなり、寂しさや切なさに身をつまされ、自らの老いを実感することが多くなってきた。70代とは、そういう時期でもあるようだ。

 先日も、仕事上で40年近くお世話になってきた恩人ともいえる大先輩が亡くなられた。

 14日、たまたま所用で東京に出ていたため、15日に埼玉県の川越市で行われた告別式に駆け付けることができ、長年かけていただいたご厚情に、感謝とお礼を申し上げることができた。

 若いころに自らが身体を壊したために、「食の過ち」に気づかれ、「千坂式」という玄米正食の食養生のメソッドを確立された方である。いまでこそ巷でよく聞かれるようになった数々の健康食品や健康法を、今から35年~40年前にすでに提唱されていた。

 例えば食物酵素、ミネラル、シリカの大切さ、氣やソマチッドの存在、フウチ、Oリングテスト、食の陰陽、酸アルカリのバランスの重要性、腸内の微生物(フローラ)、腸造血説など、数え上げればきりがないほど。

 自分自身が健康を取り戻すために手作りしていた玄米酵素などの食品を、同じ病で苦しんでいる友人知人に分け与えていたところ、請われて商品化するようになり、健康食品のメーカーを立ち上げた。

 今でも厳選された食材で、手作りに近い製造方法をしているため大量生産ができず、決して大手メーカーのような流通はしていないが、知る人ぞ知る「千坂メソッド」である。 

 私は、千坂先生が出演するラジオ番組のディレクターとして、35年間ほどお手伝いをしてきた。3年前にラジオ番組も、会社も二代目に引き継がれたため、2年ほどお会いしていなかったが、棺の中の先生のお顔は、シミや皺一つなく、生前と変わらない穏やかな優しい笑顔のままだった。きっと人生の目的を果たされ、満足して旅立たれたのだと思う。

 私が人一倍健康の問題に関心があり、70代になるまで歯医者以外病院のお世話にならずに来れたのも、先生の影響が大きいと感謝している。心からご冥福を祈りします。

 

2019年11月18日リンクURL

沖縄の皆さんと共に頑張っていきたい ~ 仏教者の方々が沖縄縦断平和行進

 今日も早朝の貸し切りバスで辺野古へ。沖縄も日の出前は肌寒い季節となった。ゲート前の座り込みは、夏の暑さも厳しいが、海風の強い沖縄は、天気予報よりも体感温度が低く、冬は冬でまた厳しい。もうすぐ2000日、今年もつらい冬を迎えるのかと先が思いやられる。

 今日は県外から参加の人たちも多かった。 

 関西弁のこの方は、「嘘つきは、安倍のはじまり」という言葉を紹介し、うやむやになっている森友問題の真実を明らかにするために、「佐川氏の国会証人喚問を!」求める署名活動を展開しているという。 

 先週の木、金、土、そして今週月曜日まで、令和天皇即位祝賀パレードの警備のためにかり出されて機動隊がいなかったため、辺野古の工事もストップした。警察権力の力を借りなければ、辺野古の工事が一歩も進まないことを、改めて証明した。

 機動隊が帰ってきて、またゲート前に座り込む人々との攻防再開となった。

 コンクリートミキサーの行列。この間、一般車両の通行は疎外される。

 反対方向の道路からは、巨大なコンクリートブロックや、建築資材を積んだダンプが入ってゆく。

 あらん限りの声を上げ、基地に向かって抗議を続ける。 

 この時期毎年、日本山妙法寺のお坊さんたちが信徒の方々と共に、沖縄縦断の平和行進を行っている。今年で15年になるという。明後日15日から一週間にわたって、北は辺戸岬から、南は摩文仁の平和公園まで、お祈りをしながら歩き通す。ありがたいことです。

 毎年平和行進においでになる代表の竹田師。「いまや沖縄だけでなく、日本中でオスプレイが飛び交い、米軍と自衛隊基地で軍事要塞化が進んでいる。いま止めなければ!沖縄の皆さんとともに頑張っていきたい」と決意を述べられた。

私は午後から別の日程があり、午前中で辺野古を後にした。

2019年11月13日リンクURL

大浦「津波襲来の碑 」 ~ チリ地震の津波に呑まれた辺野古②

 先月の12日、島袋文子さんが1960年に起こったチリ地震で、辺野古の集落が津波に襲われた話をしてくださったことは、このブログでも取り上げましたが、調べてくれた方がいて、大浦の集落に「津波襲来の碑」があるというので、去る2日、辺野古大行動の集会の後に、大浦集落まで足を延ばした。

 大浦の集落は、まさに新基地建設で埋め立てられようとしている大浦湾の扇の要に当たる位置にある。眼前に埋め立て工事が進む辺野古崎が見える。

碑は、集落の中央、公民館などがある広場に建っていた。

 

 チリ地震津波とは、1960年5月22日(現地時間)、チリ南部沖合で発生したマグニチュード9.5の地震。チリでは地震と津波で約2000人の死者が出た。津波は太平洋全域に波及し、各地に甚大な被害をもたらした。

 日本へは24日(日本時間)午後に第一波が太平洋岸各地に到着、三陸海岸では高さが5~6メートルに達した。日本ではチリ地震津波として知られ、死者・行方不明者142人、家屋全壊1500戸の被害が出た。

 沖縄でも、沖縄本島中北部、宮古島、石垣島に津波が襲来、被害は死者3名、家屋全半壊28、半壊109、羽化上浸水602、床下浸水813に及んでいる。

 辺野古集落では死者はでなかったが、28戸の浸水被害がでた。「朝6時ごろ、何か重たいものを引きずるような大きな音がしたので目が覚めて、雨でも降っているのかと思って戸を開けたら、大きな波が山のようになって見えた。当時はトイレは汲み取り式だったので、それが海水と一緒になってもうぐちゃぐちゃ。大変だった!

 政府は大きな地震は起きないというけど、あんな遠い南米の地震でもあれだけの津波が起こるんだから、そんなところに基地なんか造ったら大変なことになるよ」と、話していた文子さんのことばが生々しい。

 当時、私はまだ小学生だったが、「チリ津波」と言えば、「屋我地大橋が決壊した」ということだけが、記憶として残っている。

 大浦の津波襲来の碑の横には、沖縄戦の戦渦にも耐え、チリ津波にも耐えてなお威風堂々、キジムナーも住むという樹齢120年のかじゅまるの木がそびえる。

 

 ガジュマルの根元に、私たち世代には懐かしいモノがぶら下がっていた。戦後20年くらいまでは、沖縄中どこの集落や学校にもあったのではないだろうか。沖縄戦の遺物・米軍製爆弾の薬きょうを利用した釣鐘である。これで時を告げ、子どもたちへ集合の合図を送り、火事など緊急のときにはガンガン打ち鳴らして危険を知らせた。それこそチリ津波のときにもこの鐘の音が、村中に響き渡ったのではないかと想像する。

 これが、今も使用されているのかどうかは、聞きそびれてしまった。

 

 集落の住民に、直接お話を伺うことはできませんでしたが、 「津波襲来来の碑」といい、可愛らしいシーサーの避難所表示と言い、大浦集落ではチリ地震津波波の教訓がいまも、しっかり生かされているように感じた。

 

 

2019年11月8日リンクURL