平和学習ツアーのガイドで渡嘉敷島へ

 16日(火)は、韓国からの平和ツアーのガイドで、渡嘉敷島に行ってきた。


 去る五月にソウル市内の教会幹部の方々を案内したときのメンバーが、今度は自分の所属する教会の若い人たちを、送り出してくださったのだそうだ。

 「地上戦」、「集団自決」、「慰安婦」、史上最悪の戦場と言われる沖縄戦の、三大特徴であるこれらすべてが、さらに濃縮した形で起ったのが渡嘉敷島の沖縄戦である。ここに大きく朝鮮半島の人々が関わってくる。

 渡嘉敷島の慰安所に、日本軍の性奴隷として繋がれ、過酷な生き地獄を強いられた7人の女性たちは、朝鮮半島から騙されて連れてこられた女性たちだった

 沖縄戦当時、この小さな沖縄の島々に147ヵ所もの慰安所があったことが、わかっているが、その中でどんなことが行われていたかは、軍の機密とも相まって全く明らかになってない。唯一渡嘉敷島の慰安所だけ、慰安所の実態が明らかになった。それは、戦後も沖縄で生きた一人の女性の証言があったからだ。

 二度と同じことを繰り返さないためにも、彼女たちのことを記憶にとどめようと、この地に「アリランのモニュメント」が建立された。

 また、一枚目の写真は、特殊特攻艇(ゼロ戦の船版)の秘匿豪の前で写したものだが、この壕もまた朝鮮半島から強制連行された「軍夫」と呼ばれた人達が掘ったと言われている。

 「特殊特攻艇」は、日本軍にとって秘密作戦だったため、住民が米軍の捕虜になって軍機密が漏れることを恐れ、住民は集団自決に追い込まれた。 

 渡嘉志久ビーチの白い砂浜で昼食をとる若者たち。しっかり事前学習もしての沖縄平和ツアーだが、「知識としては知っていたが、やはり実際に現地に来なければわからないことがある。ひしひしと体に感じるものがありました」と感想を語ってくれた。 

 集団自決のあった北山(ニシヤマ)では、村花・ケラマツツジが開花、青い空に映えていた。

 

2024年1月17日リンクURL

警備費一日2100万円の正体見たり! ~ 1月12日の安和桟橋

 12日(金)、辺野古での「代執行許さない県民大集会」終了後(11時過ぎ)平和市民連絡会のメンバーは、安和桟橋に向かった。

 この日、辺野古の集会に参加したくてもできない人たちがいた。辺野古埋め立て土砂の搬出港である安和桟橋と本部塩川港からは、この日も休むことなく土砂の搬出が行われていたからだ。

 こちらだけが抗議行動を休めば、多量の土砂が辺野古へ運ばれてしまう。安和桟橋金曜日の責任者は平和市民連絡会の担当だったので、多くの人たちが辺野古で集う中、一部の人たちが名護市の安和桟橋前と本部塩川港で頑張っているのだ。時間を惜しみ昼食も移動するバスの中で済ませ、安和桟橋に駆け付けた。

 私にとっては実に2年ぶりの安和桟橋である。

 安和桟橋での抗議行動は、辺野古のように決められた時間に座り込むのではなく、国道から港に入るダンプを一台一台とめて、門の前を牛歩戦術でゆっくり横断することで、ダンプの数を一台でも多く減らす。

 従って、みんなで一斉に休息をとる時間はなく、一日中歩きっぱなしになる。自らタイミングを見計らって、30分に1回、5分程度の休息と水分補給をするよう自己管理しなければならない。かなり過酷だ。それでもこの日は、辺野古からの流れで、いつもより人が多かったので、スムースに交代で休息をとることが出来た。

 港の中を覗くと、積み置きの土砂の山をダンプに積み込むショベル重機が4台、フル稼働していた。

 ダンプの入り口だけでなく、出口でも同じように牛歩戦術の抗議行動が行われる。ここは国道に出るための信号機がないので、牛歩戦術は余計に効果があるようだ。

 安和では、機動隊は港の中で待機、民間の警備員だけがゲートで警備に当たっていた。彼らに、市民の抗議行動を規制する権限はない。

 安和桟橋では、午後7時までダンプによる土砂の積み込み続くが、私たちは明るいうちに那覇までたどり着かなければならない(那覇まで2時間半)ため、3時半には安和を後にした。

 久々に晴れて穏やかな青い海に、点々と浮かぶ十数隻の小型船。カヌーや抗議船が土砂運搬船に近づかないよう、防衛局に雇われた民間の監視船である。ひねもす波に揺られているだけで、高額の警備費を費やす。辺野古大浦湾にも、本部塩川港にも同じような監視船がいる。これが一日2100万円と言われる辺野古関連警備費の一部である。 

 路肩の植栽の根元に淵草で描かれた「命どぅ宝」の文字。人間一人に一つだけの命。命より大事なものはない。しかし、「武器をとるものは武器で滅びる」「武力で平和は守れない」。噛みしめるべき先人訓である。

 

2024年1月14日リンクURL

「代執行」を「大失敗」へ ~ 代執行埋め立てを許さない県民集会

 昨日(12日)は、辺野古で行われた「代執行埋め立てを許さない県民集会」に参加した。

 辺野古行きのバス乗場のある県庁前の県民広場では、ハンスト決行中の具志堅隆松さんとその仲間たちが、元気に朝を迎えていた。

 最終日となるこの日は、夕方5時から打ち上げの集会が行われるが、私たち辺野古組は間に合うかどうか?

 辺野古へ到着したのは開会5分前、座り込みテントの周辺はすでに900名余の参加者でいっぱいになっていた。

開会あいさつは、稲嶺進オール沖縄会議共同代表。「国が予定よりも早く抜き打ち的に埋め立てに着工したのは見せしめのつもりか?こんなことで我々はめげない。明治の琉球処分から何度も同じ目にあって来た。なんでうちなぁんちゅだけこんな思いをしなければならないのか!ガッテンナラン(合点がいかない)ナランセ―ナラン(ダメなもはダメ)と言い続けよう!」と怒りの声をあげた。

 玉城デニー知事もメッセージを寄せ。「政府は、地元に丁寧に説明すると言いながら、防衛相も総理も、かつて一度たりとも面談などをしたこともない。丁寧な説明とは真逆だ」と批判した。

 また、県庁前でハンガーストライキを行っている具志堅隆松さんんもオンラインでメッセージを寄せた。

 闘いの現場から平和運動センターの山城博治さんは「辺野古側の土砂投入から5年で埋め立てできたのはわずか15%。残り85%を埋め立てるのに後30年かかるという計算になる。しかも辺野古側は浅瀬、大浦湾は海底75から90メートルの軟弱地盤、この基地は永遠に完成しない。

 心配されるのは、土地規制法。政府は辺野古の基地周辺も規制の対象にするのではないか。それによって、このテントの撤去を可能にし、ゲート前に座り込むこともできなくなる。今後の闘い方を考えていかなければならない」と。

 地元・辺野古のヘリ基地反対協事務局次長・吉井俊平さん。「僕はいま31歳。辺野古のヘリ基地問題が浮上して30年。国は失われた30年と言うが、失ったのではない。あなたたちが奪ったのだ。完成しない基地をつくり続けるより、建設をやめていただくのが国民の公益だ」と訴えた。

 

 この他、国会議員代表、県議代表、各島ぐるみ代表も次々挨拶、「代執行は大失敗に終わらせる」と、めげず闘い続ける決意を新たにした。予定を30分近くオーバーする思い熱い集会となった。

 この日、ゲートからの資材搬入はなかったものの、大浦湾では海への捨石の投下が続いており、カヌーと抗議船が繰り出して抗議活動を展開、東京でも国会前で代執行に抗議する集会が開かれた。

 集会後、平和市民連絡会のバスは、辺野古を埋め立てる土砂の搬出港である安和へと向かった。(安和での抗議行動については、別項で紹介する)

 

2024年1月13日リンクURL