辺野古の花 ~ ひめゆり学徒たちが愛したソウシジュ(相思樹)の花

辺野古への行き帰り、山原の山は豊かな自然の移り変わりを見せてくれます。
2週間ほど前から「いじゅ」の花が咲き始め、今週半ばから沖縄自動車道の沿道は、ウェディングドレスを思わせる「白い花をまとった樹」が多く見られるようになりました。

でも、イジュは雨の似合う花、梅雨までにはもう少し時間がありそうなので、今日は「ソウシジュ」をご紹介しましょう。

<金網の向こう>

    <金網のこちら。人々の向こうに見えるブルーシートが座り込みテント>

木々や花々は、基地の中も外も分け隔てなく咲き育ちます。自らの命を、与えられた環境でただ全うするのが彼らの使命なのでしょうね。メインゲート前の座り込みテントの横にも、大きな相思樹の花が満開です。

高さ5メートル以上にもなる大きな樹ですが、花は鮮やかな黄色いコロッとした小さな花をたくさんつけます(4月中頃から5月頃)。ボンボリ状の小さな花が、コロコロと散り落ちる様も風情があります。

相思う樹と書いて「相思樹(ソウシジュ)」と読むロマンチックな名前の由来には、

中国・宗の時代に、暴君によって引き裂かれた男女の悲しい物語があるようですが、話が長くなりすぎますので、それは次の機会にとっておくことにして、

 

実は、沖縄の人たちには「ソウシジュ」への深い思い入れがあります。

ひめゆりの塔の横にあるひめゆり資料館に入ると、流れてくる静かなメロディがあって、「相思樹の歌」というタイトルがついています。

別名「別れの歌」とも呼ばれるこの歌は、「ひめゆりの乙女たち」が卒業式に歌うはずの歌でした。

彼女たちの母校(沖縄師範学校女子部と第一高女)は、現在の那覇市安里にあり、相思樹並木をくぐって登下校していました。

ひめゆり学徒隊と呼ばれた彼女たちは、学業半ばに看護要員として戦場に駆り出され、若い命を散らしただけではなく、沖縄戦が始まる前から、日本軍の陣地の壕堀りなど勤労奉仕に明け暮れ、授業どころではありませんでした。

当時、 高射砲陣地を造る指揮をとっていた太田博少佐(福島県郡山出身)は、そのような女学生たちに心を寄せ、間もなく卒業式があると聞いて、はなむけに「想思 の歌」という詩を贈ったのです。その詩に、当時の音楽教師・東風平恵位さんが曲をつけました。それまで軍歌ばかりを歌わされていた彼女たちは、胸に浸みる歌詞とメロディに喜び、卒業式に備え胸躍らせて一生懸命練習していました。

しかし、卒業式に歌うよう指示されたのは、軍歌「海行かば」。ついにこの歌は歌われることはありませんでした。ひめゆり学徒隊240名(内引率教師18名)中、戦死者135名。地獄と紙一重の過酷な戦場で、彼女たちを励まし心の支えになったのがこの歌だったのです。

以来、ひめゆり学徒の愛唱歌として、今日まで歌い継がれているのです。

        相思樹の歌      

日に親し  相思樹並木         
往きかえり  去り難けれど
夢の如  疾(と)き年月の
往きにけん  後ぞくやしき

学舎の   赤きいらかも
別れなば  なつかしからん
吾が寮に  睦みし友よ
忘るるな  離(さか)り住むとも

業なりて  巣立つよろこび
いや深き  嘆きぞこもる
いざさらば  いとしの友よ
何時の日か  再び逢わん

微笑みて  吾等おくらん
すぎし日の  思い出秘めし
澄みまさる  明るきまみよ
すこやかに  幸多かれと
幸多かれと

◇作曲の東風平恵位さんは、隠れていた防空壕にガス弾を撃ち込まれ、数名のひめゆり学徒と共に戦死。

◇作詞の太田少佐は、地元福島で「無名詩人」と称される文学青年でした。昭和20年6月20日糸満市米須で米軍に切り込み突撃、壮絶な戦死を遂げたといわれています。享年25歳でした。

2018年5月4日リンクURL