終わらない戦後④ 沖縄のお年寄りを苦しめる沖縄戦の記憶「戦争トラウマ」~不眠、幻聴、フラッシュバック、パニック障害、うつ病、統合失調症~

40年以上も前に児童文学者・大川悦生さんから聞いた話が、忘れられない。
「沖縄戦の末期、艦砲射撃が炸裂する中を、背中に2歳の息子を負い、両の手に上の子二人を連れて南部の激戦地を逃げ惑う母親がいた。いつの間にか息をしなくなった背中の子を降ろし、道端にわずかに穴を掘って埋めた。我が子の死を悲しむ暇(いとま)さえなかった。「必ず迎えに来るからね」と声をかけ、埋めた場所の地形を目に焼きつけて立ち去った。

「戦争で受けた(辛い)思いを届けても心に受け止めることのできない政治は堕落だ」。辺野古ゲート前テント今月の琉歌(2016年6月)

戦争が終わり、捕虜収容所から解放されて真っ先に息子を埋めた場所に向かった。この辺と思う原野を次々掘り返したが見つからない。何日も何日も掘り続けた。誰が止めてもやめようとしない。いつしか心を病んでいた。
生きのびた二人の子どもが大人になり、母親のために広大な土地を買って家を建てた。母親は今も失った息子の名前を呼びながら庭の土を掘っている」。

<高い精神疾患率の正体>
沖縄の本土復帰前後の数年間、私は琉球政府・沖縄県庁の第二記者クラブに所属、厚生、教育などを担当していた。毎年発表される各種統計の中で、沖縄の精神疾患の罹患率が、全国に比べ突出して高い(2倍~3倍)ことがいつも問題になった。小さな島の中で近親結婚が多いことも原因ではないか、というのが関係者の間で定説になっていた。
後に、ベトナム帰還兵の過酷な戦場体験によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)が「戦争トラウマ」として認知されるようになったが、なぜかそれが「沖縄戦」に繋がることはなかった。
2004年から2012年まで、沖縄のメンタルクリニックで診療経験を持つ精神科医の蟻塚亮二氏は、クリニックを訪れる高齢の患者に、一般的な「うつ」や「統合失調症」の症状ではない「奇妙な不眠」があることに気づく。

「蟻塚亮二氏(精神科医)2004年から沖縄の病院に勤務。
原発事故後2013年より、福島県相馬市のメンタルクリニック院長。沖縄での診療経験を活かし、災害によるトラウマの診療に取り組んでいる」

それが何なのか診断がつかないまましばらくたったある日、「アウシュビッツ生還者の40年後の精神状態に関する論文」の中に、沖縄の高齢者の症状と特徴がとてもよく似た症例を発見する。それで思い切って患者に聞いてみた。「沖縄戦のときはどこにおられましたか?」すると、患者らは次々と過酷な戦争体験を語り出したという。

<花火が、赤い花が嫌い!>
3年前に90歳で亡くなった私の母は、沖縄の県花であるデイゴの花が「嫌い」と言った。真っ赤な花びらが地面に散り敷く様子が、戦場で見た戦死者の「血」をイメージさせるからだという。6月の慰霊の日が近づき、テレビや新聞で沖縄戦の報道が多くなると、夢でうなされ、夜中に何度も目を覚まし、頻繁に起こる頭痛に悩まされた。3・11の津波で瓦礫ヶ原となった被災地のテレビ映像に「イクサヌグトドアル(まるで戦場のようだ)」とつぶやいて目を伏せた。
辺野古ゲート前で座り込みの人たちに「文子おばぁ」と慕われる島袋文子さん(87歳)も聞くだけで胸をえぐられるような戦争体験の持ち主である。戦争当時文子さんは15歳。目の不自由な母親と5歳年下の弟を伴って戦場をさ迷った。身を隠していたガマが米軍に見つかり、投降に応じなかったため火炎放射器で焼かれた。炎から弟を庇うために自らは背中に大やけど負った。

おちゃめで笑顔の絶えない辺野古ゲート前での島袋文子さん。臆せずダンプの前にたちふさがり、機動隊にも動じない文子さんだけど…。

そんな文子さんに、先日躊躇しながら訊ねた。「今も戦争のときの夢を見ることがありますか?」と。「夢ではない。眠るとき思い出して寝付けない。毎日睡眠不足になる」「私の前を歩いていた人の首が爆弾で吹き飛び、その人はそれでも30メートルくらい歩いて、それから倒れた。赤ちゃんを負ぶっていた女の人に“あなたのお子さんは首がないですよ”と教えてあげたこともある。そんなことばかり見てきたんだから…」「飛行機の爆音や花火は大嫌い。戦場を思い出して心臓に響く。それで心臓が悪くなった。沖縄のお年寄りは、そういう人多いはずよ」。

<晩発性トラウマ>
戦争が終わって六十数年もたってなぜトラウマ症状が表れるのか?若いころは生きることに一生懸命で記憶の片隅に押し込めていた心の傷が、高齢になって暮らしや心にゆとりが出てきたところで表出する、蟻塚医師はそれを「晩発性トラウマ」と名付けた。医者も本人さえも気づかないまま、何十年も前の戦争の記憶が、沖縄のお年寄りたちを苦しめていた。

実弾で完全装した戦車が行き交う辺野古ゲート前。沖縄の米軍基地は常に世界の戦場と直結している

時間の経過とともに癒えるどころか、頻発する基地がらみの事件・事故、米軍機の爆音などが、傷口に塩を擦りつけるがごとくトラウマを増幅させている、と蟻塚医師は言う。沖縄戦の体験者にとって「戦争」は、まだ終わっていなかったのだ。

<トラウマを越えて>
それでも文子さんはいま、請われればどこへでも「戦争体験」を話に行く。先月も参議院の院内集会で500人、翌日の長野県佐久市では1千人の聴衆が集まったという。「戦争の話をするのは辛くないですか?」「講演の前後数日は余計に眠れなくなって、心臓もバクバクする。この前も主治医には止められたけど、今の人たちは本当の戦争がどんなものか知らないからまた平気で戦争をしようとしている。だから話さなければ。それが生き残った者の務めだから」
「戦争による心の傷」は深く複雑で、沖縄戦についてはまだ調査、検証、治療ともに緒に就いたばかり。医者でも研究者でもない私には「こんなこともある」という表面的なことしかお伝えできない。関心のある方は、ぜひ蟻塚氏他、専門家の書籍などで深めていただきたい。

* * *

◇参考文献:蟻塚亮二著「沖縄戦と心の傷~トラウマ診療所の窓から」大月書店

2017年9月18日リンクURL

終わらない戦後③~戦没者の遺骨を家族のもとへ帰してあげたい

< ガマフヤー・具志堅隆松さんの想い>

辺野古ゲート前で基地に向かって訴えているのは、自らをガマフヤーと称し、ボランティアで34年間も戦没者の遺骨を掘り続けている具志堅隆松さん(63歳)。

「キャンプ・シュワブは、終戦直後捕虜収容所だった。そこで亡くなった人たちの埋葬地があったが、そのまま基地が作られてしまったため、まだ収容されていない遺骨がたくさんある。調査をさせてほしいと米軍に要請しているが、いまだに実現しない。米軍のために死んだ人たちの遺骨が収容されないまま、その上にさらに基地を建設するなんて、戦争で亡くなった人たちへの二重の冒涜だ。米軍は、私たちにきちんと向き合いなさい!」。

基地内の遺骨収集を訴える具志堅隆松さん。
米軍は戦後すぐに住民を収容所に囲い、
その間に沖縄中に基地を建設した。戦没者の
遺骨収集がされないまま…。

<いまだ未収骨113万人>
去る大戦で沖縄を含む海外での日本人戦没者は240万人と言われている。そのうち収容された遺骨は約127万人余、残り113万人がまだ異国の土の下に眠っている(2016年厚生労働省資料)。戦後70年以上が過ぎてもまだ半数の遺骨が収容されていないとは何ということだろうか。しかも戦争責任を負うべき国が行った遺骨収集は34万人分に過ぎず、多くは遺族会やボランティアなど民間の手で行われてきたという。

そのうち沖縄戦の戦没者はおよそ22万6千人。これまでに18万5121人分の遺骨が収容されたが、4万人が未収骨。現在も、毎年約100人分の遺骨が新たに収容されている。

<ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ>
前出の具志堅隆松さんは、ボーイスカウトのリーダーをしていた28歳のとき、本土から来た遺骨収集団の支援で戦没者の遺骨収集に初めて参加した。激戦地だった南部の原野に点在する岩の割れ目や埋没壕を少し掘ると、次々と遺骨が出てきた。「戦争で死んだ人が何十年も放ったらかしにされていたなんて!」という思いが胸にこみ上げた。以来、遺骨収集に毎年参加するようになった。

学生ボランティアによる遺骨収集

しかし、本土からの遺骨収集団がやってくるのは一年に一回だけの年中行事。年々劣化していく遺骨に気がつき、一人でも収集しようと決心、仕事が休みの週末にコツコツとガマを掘り続けてきた。その中でわかったことは、この遺骨の人は「死んだ」のではなく「殺された」のだということだった。

<遺骨は戦争の証言者>
遺骨が埋まっている状態から、その人がどんな状況で死んだのかがわかるという。そのためには遺骨を動かさないよう竹串や刷毛などによる手作業で丁重に掘る必要がある。そして発掘状況のすべてを細かく記録する。とにかく忍耐と時間が要る作業だ。
具志堅さんは、日米軍が激突したかつての激戦地が、都市開発でどんどん掘り起こされていくことへの懸念から、一人で遺骨収集をすることに限界を感じるようになった。開発工事現場は決められた期間に遺骨収集作業を終わらせなければならない。広大な土地の発掘を一人でするのは無理と悟り、新聞に投書したり「市民参加型遺骨収集」のパンフレットを作ったりしてボランティアを募ったところ50名あまりの参加があり、これがきっかけで沖縄戦遺骨収集ボランティア集団「ガマフヤー」が誕生した。
一方で、国(厚労省)の管轄で行われている遺骨収集もあることもわかった。そこでは入札による請負の土建業者が、土を重機で掘り起こし、ベルトコンベアーでふるいにかけて遺骨を取り出していた。「遺骨はただ収骨すればいいというものではない。遺骨収集を金儲けの手段にするなんて!」と具志堅さんは憤る。

<遺骨を家族のもとへ帰したい>
具志堅さんの長い活動のなかで、これまでアメリカ兵の遺骨は一度も出ていないという。それは、米軍には戦死者の遺体はどんな危険を冒しても収容して本国へ送り、家族のもとへ帰すという伝統があるからだとのこと。
ベトナム戦争でも戦士した米兵の遺体は沖縄に運ばれ、洗浄、修復し防腐処置を施してアメリカ本国へ送られていた(遺体の洗浄に関わった県民の証言)。それに比べて日本軍は、食料は現地調達、戦死者の遺体は現地に置き去りという無責任な軍隊だったことがわかる。

「父は私が生まれて一週間後に召集され『沖縄の糸満で戦死』の公報が届いたが、骨箱に入っていたのは、遺骨ではなく一塊の石ころだった」。1977年から150回以上も沖縄に通って、沖縄戦で亡くなった父親の遺骨を探し続けている佐賀県の塩川正隆さん。
(辺野古ゲート前にて 15年9月)

具志堅さんたちの強い働きかけもあって、2016年2月、国はやっと「戦没者遺骨収集推進法」を成立させた。
収集された遺骨は国立沖縄戦没者墓苑に納骨される。しかし、具志堅さんたち「ガマフヤー」の最終目標は遺骨を故郷の家族のもとへ帰すことである。そのためDNA鑑定で求めてきた。当初国が認めたのは兵士だけだったが、民間人もDNA鑑定が認められることになり、いま135人の遺族が鑑定を申し出ている。

<戦没者の遺骨収集は国の責任>
遺骨収集ひとつをとってみても国の戦後処理のあり方には、戦争を起こしたことへの反省や責任、戦没者への謝罪のかけらも感じられない。だからまたぞろ新たな戦前へと向かうことが平気でできるのであろう。
最後に具志堅さんのことばを今一度噛みしめたい。「僕たち国民は、国が果たすべき責任はきっちりと果たすように要求し続けることが大切です。それが国民としての責任であり、次の世代の日本社会をよくすることに繋がります」。

 

※ガマフヤー:「ガマ」は洞窟や壕など。フヤー:掘る人。
※参考文献:具志堅隆松著『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』

2017年9月15日リンクURL

今日(9月13日)の辺野古~沖縄ダンダン!安倍のダラクソ!

♪ 雨が降ろうが、風が吹こうがゲート前 ♪
そんな歌を歌いながら、台風18号の最中今日もゲート前に。

メインゲート前のテントでは、泊まり込みのスタッフが風で巻き上げられるテントの補強をしたりと、台風対策に追われていた。

時折、叩きつけるような雨に、いつもの雨具も役に立たず、もちろん傘も差せないのでビショ濡れで座り込む。

さすがに早朝は、いつもより座り込みの人数は少なかった。そこを見越してか、待機中のトイレ送迎車を「ここは駐停車禁止です。すぐに移動してください」と、パトカーが追い立てる。

場所を移動して停めると、ここでもパトカーが後ろから「移動しろ」と脅す。ゲート前行動が始まってこれまで3年間、こんなことはなかった。「トイレに行く便宜くらい認めろ」と、みんなで抗議。ミミッチイが弾圧はここまで来ている。

島根から「沖縄と連帯する島根の会」の皆さんが座り込みに参加。ゲート前にあふれる「うちなぁぐち」に応えて、島根にも島根弁があります」と披露したのが「沖縄ダンダン!」「安倍のダラクソ!」だった。 ちなみに、ダンダン=ありがとう ダラクソ=大バカヤローだそうだ。

専修大学の学生たち(30名)は、「沖縄ジャーナリズム講座」で沖縄の新聞からジャーナリズムを学ぶ若者たち。座り込んでいる沖縄の人たちの中に入り、真剣に聞き取りをしていった。

 

人数が少ないことに付け込まれ、3回にわたってごぼう抜きに合い、179台の砕石や工事資材を積んだトラックに入られてしまった。

「いちゃりば ちょーでー(出会えばきょうだい)」

機動隊の檻に囲われても声をあげ続ける抗議の人々。

道交法違反の改造車も多数含まれる業者のダンプトラック。違法ダンプを取り締まるどころか、護衛、誘導して基地の中に入れる県警。市民らの抗議にも耳を貸さない。

2017年9月14日リンクURL