「戦争と平和」の闘いの軌軌跡を訪ねて ~ やんばる・ 伊江島旅 ⑤ 伊江島編( 下)

  謝花さんのお話に高揚する気持ち冷めやらぬまま、島めぐりに出かけた。沖縄戦の傷跡、阿波根さんを先頭に島の人たちが闘った土地闘争の痕跡、今なお拡充が続く米軍演習場の現状を知りたいと、わびあいの里のスタッフに案内をお願いしていた。夕方4時伊江島発の船に間に合わせて、かなり駆け足の行程になりそうだ。

 このような平和学習の案内も、わびあいの里の活動として行っていると、詳しいい伊江島情報を教えて下さったのも、高垣喜三さんだった。お元気なら、「日曜日は塩川の監視活動も休みなので、もしかしたら伊江島で会えるかもね」と、笑顔で話してくださった高垣さん。残念でならない。

 まず案内されたのは、戦時中、島の住民が隠れた自然の洞窟・アハシャガマ。

 沖縄本島の「ガマ」で起こったと同じように、日本軍によって引き起こされた「集団自決」の現場。村民150人が犠牲になったと記されている。

 島のシンボル・タッチュー(塔頭)に登る途中で見たのは、米軍の艦砲射撃の跡が生々しく残る公証市場の建物。戦争遺跡として残されている。

 伊江島タッチューへは、8合目辺りにある駐車場まで車で登れた。ここから頂上までは自分の足で、10分もあれば行けるのだが、この日は雨模様で急な岩場は危険なのと、何よりも時間がなかったので断念した。

 島で唯一の山、頂上からは、360度島の全容が見渡せる。戦時中は要塞にも見えたのか、米軍の砲撃の的になったという。

 この見事な「ガジュマル」の木も戦争遺跡。井上ひさし原案、こまつ座が舞台化した「木の上の軍隊」は、終戦を知らぬまま2年間、このガジュマルの木の上で暮らした2人の日本兵の実話が元になっている。昨年、沖縄でも上演された。

 伊江島に上陸した米軍は、基地拡張のため住民全員を慶良間諸島に移送。住民が誰もいなくなったこの島で二人の日本兵は、米軍に見つからないように、昼は木の上に潜み、夜なると地上に降りてきて食料を調達、畑も耕していたという。すぐそばに米軍の兵舎もあり、米兵が木の下を頻繁に行き来する中、よくも2年間見つからなかったものだ。

 伊江島の「戦争」はいまだ終わらない。米軍によって強奪された島の土地は、島の全面積の35%を占め、海兵隊のパラシュート降下訓練や軍用機の発着訓練場として今も使われ続けている。

 普天間にオスプレイが配備された後は訓練が激化し、騒音だけでなく、兵士や物資の民間地への投下ミスなどの事故も多く起こっている。さらに米軍は今年6月、滑走路の強化工事を行い、基地機能の強化を行った。

 オスプレイ200機が常駐する辺野古の新基地が完成すると、辺野古、高江、伊江島を結んで飛行訓練のトライアングルコースが出来ると目論まれている。

 阿波根さんが夢見た理想の農民学校のための土地は、いまだにこの米軍基地の中にある。住民の多くは、米軍への土地提供の契約に応じない「反戦地主」になった。しかし、長い年月を経て、世代交代もあり反戦地主が減少してしまった。阿波根さんは契約を拒否し続け、2002年に亡くなった後も、謝花さんらわびあいの里が引き継いで「反戦地主」貫いている。 

 島めぐりの最後は、阿波根さんたち島の住民が島ぐるみで闘った「団結小屋」を訪れた。老朽化が進み取り壊しの危機に陥ったが、全国から資金を集めて昨年改装されたばかりという。

 団結小屋の内にも外にも、人々が闘いの心の拠り所としてきた「非暴力、無抵抗の抵抗」を誓った名言の数々が力強い墨字で記されていた。

 中でも米軍との交渉時の心得を説いた11か条の「陳情規定」は、辺野古の座り込みにも大いに参考になる。

一、反米的ににならないこと。(反軍であって反米ではない)

一、怒ったり(相手の)悪口を言わないこと。

一、耳より上に手を挙げないこと。米軍は我々が手を挙げると、暴力をふるったといって写真を撮る。(辺野古では機動隊がこの手法をとって、市民を逮捕する手段に使っている)

一、軍を恐れてはならない。

一、沖縄人同士は、いかなることがあっても決して喧嘩はしない。(仲間割れしない)

一、人間性において、生産者である我々の方が軍人に優れている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切である。etc…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塀や壁に書き込まれている琉歌は、闘いの中から生まれた歌。人々はこれらの琉歌を地元の民謡にのせて歌いながら、座り込みの現場や乞食行進を行ったという。直接的な勇ましい闘いの歌だけではない。自然の美しさを讃える歌に、島人の感性の豊かさがしのばれる。

 その伝統は、辺野古の座り込みでも生きている。このブログでも紹介している「辺野古抵抗の歌」の数々は、辺野古の座り込みの中から生まれた。すぐにみんなで一緒に歌えるよう、おなじみの沖縄民謡やよく知られた歌謡曲の替え歌が多い。

 

 

 

 

 

ガイドをつとめてくださったわびあいの里のスタッフが、上の写真の琉歌を地元の民謡で歌ってくれた。県外出身ながら三線もなさるという彼女の美しい歌声が胸に沁みた。

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 今回のやんばる・伊江島の旅は、どこも初めての場所ではなかったが、私のなかで記憶を新たな視点で問い直す学び多い旅となった。この機会を与えてくれた友人たちに、改めて感謝したい。

 この日も名護市内に一泊して、翌7日(月)に、辺野古の座り込みに参加した。その様子は①で紹介した通りである。

 

 

2020年12月14日リンクURL

阿波根昌鴻さんとともに闘った50年 謝花悦子さん ~ やんばる・伊江島の旅④ 伊江島編 ( 中)

 平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を見せていただいた後、館長(わびあいの里理事長)の謝花悦子さんにお話を伺った。 

 「阿波根昌鴻さんと50年以上も一緒に戦ってきた。すぐそばで阿波根昌鴻の闘いの人生を観てきた者として、彼の意志を継いでわびあいの里の運営をやっている。

 阿波根さんは、よくガンジーやキング牧師と例えられるが、彼らと同じなのは非暴力ということだけ。阿波根さんが命をかけたのは土地。”人間、土地さえあれば餓死しない”と、よく言っていた。 

 人間が生きることができるのは、土地のおかげである。土地は何十年、何百年使っても人間に還元してくれる。金は、使えばなくなってしまうものである。(ここでいう土地とは、もちろん不動産として金儲けができる土地ではなく、耕し、食料を生産する土地のことである)資本主義が発展し豊かになった現在は、難儀しない、損しない、金になる作物しか作らないという社会になってしまった。

 この世に生まれて大切なものはまず命。その命を守り育て、幸せな人生を送ることができる社会でなければならないはずなのに、今の時代はどこに向かっているのか?

 沖縄戦から75年、戦争は人災である。今回のコロナ禍も世界で核戦争の準備が進められ、軍備強化がされ続けてきた結果の人災であると思っている。

 60年前に”水素爆弾”の話を初めて聞き、放射能と言う目に見えない空気のような毒を持っている兵器があると知ったとき  ”これは地球の外へ出すことはできないのか?”と、とても幼稚なことを言って笑われたことがある。状況は違えども、今回のコロナウィルスのように目に見えないものによる世界の混乱を見た私の怒り、悔しさ、悲しみ、つらさをどう表現することができるのか、言葉では言い表せない。

 日本の地図を見ると60%に基地がある。沖縄も同じ。(辺野古の米軍基地だけでなく)、自然を破壊して、宮古・八重山にまで自衛隊基地を造っている。軍備のためには借金してまで新兵器も作っているという。政治は国民のためにあるべき。人間が生きるためには何が必要か、(政治家のみなさんには)今一度考えてもらいたい。

 豊かな自然の中ではいかなる放射能も消滅する。その自然を破壊し続けてきたために、自然界が消化できないようになったのが”コロナ”だ。鳥インフルエンザも、豚コレラもそうだ。戦争ばかりして命の大切さを顧みない。このままいったら地球が破滅してしまう。”人間よ!この愚かさ気づきなさい”とコロナは出てきたのではないだろうか。現に、コロナ禍によって土地、農の大切さが見直されて来ている。

 沖縄が焦土と化した沖縄戦が終わって75年。日本政府は、反省もしない、後片付けもしない、責任もとらない。次の軍備のために沖縄にすべてをかけている。その予算をゼロにして、国民のために使ってもらいた。

 平和への道は学習、理解は力なり。何故戦争が起こるのか、これから生まれてくる子どもたちのために、先輩として阿波根とともに学んだことを後世に伝えていく。私は死ぬまで闘う。決してあきらめない」。

 謝花さんのお話は熱く力強く、2時間近くに及んだ。お話の中で、軍拡競争に明け暮れ、殺してまでも奪う世界(日本も含め)の不条理に、「この怒りは、言葉では言い表せない」と、もどかしそうに何度もおっしゃった。

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 実は、先日亡くなられた高垣喜三さんは、わびあいの里の常務理事をつとめていらした。謝花さんは、前日その葬儀から帰られたばかり。最大の支援者を無くされて失意の中にいらっしゃる謝花さんに告別式でお会いした。こんな時にお尋ねしていいのかお伺いしたら、「こんなときだからこそ来てほしい」とおっしゃってくださった。

 改めて、お悔やみと感謝を申し上げたい。

 わびあいの里を出る私たちを、庭まで出て見送って下さった謝花さん。

 

 

 

2020年12月13日リンクURL

ヌチドゥタカラの家 (わびあいの里)~ やんばる・伊江島の旅③ 伊江島編 (上)

 12月5日(日)、やんばる・伊江島の旅三日目は伊江島に渡った。

 数日前から悪天候が続き、波が高く、船が運航するのかどうかも、当日朝まで全くわからなかった。友人たちを迎えて以来この三日間「伊江島に行けますように!」と、ひたすら祈った。

 当日朝、宿泊した名護のホテルの窓から見える名護湾の沖は、白波が立っていて心配したが、無事渡ることができた。

 本部港から30分のフェリーの旅。おなじみのイイジマタッチューに迎えられて伊江島の地を踏んだ。

 真っ先に阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんが集めた資料と、その活動の軌跡を収蔵する反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を訪れた。

 阿波根昌鴻さんは、戦後、伊江島の土地の約6割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立った方である。

 「全沖縄土地を守る協議会」の事務局長や「伊江島土地を守る会」の会長を務め、1955年7月から翌56年2月にかけて、沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行って米軍による土地強奪の不当性を訴え、1956年夏の島ぐるみ土地闘争にに大きな影響を与えた。

 

 <写真は許可を得て撮影・掲載しています>

 「ヌチドゥタカラの家」は、1984年12月8日に開館しました。平和のためには戦争の原因を学ばなければならないという阿波根の考えを具体化したもので す。人間の生命を粗末にした戦争の遺品と平和のためたたかった人々の足跡を紹介しています。土地闘争の中で収集した米軍の爆弾、原爆模擬爆弾、鉄線、標識や戦争直後の生活用品や闘争を記録した写真や土地を守る会の旗などを展示(ヌチドゥタカラの家ホームページより)

 館内には含蓄のある阿波根さんのことばがたくさん展示されているが、ここでは2つだけ紹介する。

 私は伊江島を訪れるのはこれで4度目。その都度ヌチドゥタカラの家にも訪れているが、いずれも仕事がらみ(取材)での訪問。それも最後に訪れたのはもう十数年前のことになる。

 改めて阿波根さんのことばに接して、胸にストンと落ちるものがあった。辺野古へ通うようになって、阿波根さんのことばの数々が、より深く理解できるようになったのではないかと思う。

 戦争体験のない私にとって、辺野古での座り込みは、国家権力の何たるかを、わずかながらでも実感できる体験となっている。その上で改めて阿波根さんのことばに出会い、熱く魂に染み入るのを体感した。

 

 阿波根さんに、「人間、(耕す)土地さえあれば餓死することはない」ということばがある。彼の夢は伊江島に農民学校を建設することだったという。建設途中で沖縄戦によって破壊され、戦争が終わってもさらに米軍によって、土地を奪われた。だから土地闘争だったのである。

 

 実は、阿波根さんには生前何度かお会いしている。やはりいずれも仕事がらみで、直接2時間ほどインタビューしたこともある。

 また、戦後米軍は伊江島を占領した後、基地を拡張するために足手まといになる住民全員を島外に移送した。その移送が先慶良間諸島だった。そのとき阿波根さんは私の故郷である渡嘉敷島に送られ、3年ほど住んでいたということが、最近明らかになっている

 

 次回は、阿波根さんとずっと闘いを共にし、現在もヌチドゥタカラの家の館長をつとめる謝花悦子さんのお話を紹介する。

 

2020年12月11日リンクURL