命の海へ 捨て石の投入つづく大浦湾

 昨日(31日)は、大浦湾側から海上での工事の様子を見る機会を得た。2回目の座り込みの後、急いで昼食を済ませ、瀬嵩在住の友人の車に乗せてもらい、水曜日の辺野古バス仲間二人と共に、瀬嵩に向かった。

 瀬嵩の浜のすぐ横に、大浦湾に接する小高い森があり、少々急こう配の坂道を5~6分登ると眼下に大浦湾が見渡せる展望台があった。

 埋め立て予定地の何倍も広い水面をフロートで囲い込んで、海上ヤードの工事が進められている。

 二台のクレーンが休みなく捨て石を投下していた。海上ヤードとは?

 護岸工事のための「資材仮置き場」と設定され、あくまで仮で、後に撤去することが前提で建設される。

 しかし、マヨネーズ状の軟弱地盤に一度投入された膨大な石材等の資材を、果たしてすべて撤去可能なのか?水面下の見えない部分は撤去しないのでは?と、早くも疑問視されている。その場限りの言い逃れをするこの国の常套手段は見透かされている。

 この日も波が荒く、海上での抗議船やカヌーによる抗議行動は行われていなかったようだ。カヌーメンバーもゲート前での座り込みに参加していた。

 山を下りた後、せっかく瀬嵩まで来たので、集落の公民館まで足を延ばした。

 瀬嵩区は集落をあげて辺野古新基地に反対している。抗議行動で瀬嵩の浜を訪れる人も多いので、公民館の入り口で、暖かいお茶や冷たいお茶などが、だれでも自由に飲めるよう用意されていた。有難いことだ。 

 公民館に展示されている大浦湾でとれる貝殻の標本が圧巻。夜光貝、スイジガイ、シャコガイ、ほら貝等々、なんともでかい。このように大きな貝がとれる豊かな海が大浦湾なのだ。

 大きさだけではない。これらすべて辺野古の海でとれる貝の種類である。この生物多様性豊かな海を、戦争の道具米軍基地のために生き埋めにしているのが日本という国なのだ。この貝殻たちを見ているだけで、これらをすべて失うのか!と痛みで胸がいっぱいになる。

 まだ遅くはない。辺野古新基地の工事は即刻中止するべきだ。

 山に登る途中で見かけたケラマツツジとムラサキカタバミの花。自然は、命に満ちている。人間も自然の一部。自然をないがしろにする者は、自らの命をもないがしろにしているのと同じ。いつか思い知るときが来るであろう。そう思わずにはいられない。

 

 

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戦争に続く道をぼくは 歩まない。誰にも歩んでほしくない ~ 今日(1月31日)の辺野古

 今日は、前日までの寒さが嘘だったかのようなポカポカ陽気の一日だった。

 県庁前7時発の辺野古行きチャーターバスは久々の満席。北海道から参加の女性が三人。北海道9条の会で活動している方々で、いつもは辺野古へ若者を送り出すためのカンパ活動などをしているが、今回は、自分たちも行ってみたいとシニア世代二人が若者を伴って参加とのこと。

 辺野古へ到着すると、いつもの工事用ゲートからではなく、メインゲートから工事資材を積んだダンプが入って行くのが見えた。どうやら海側だけでなく、陸地の方でも、何らかの工事が行われているようだ。

7:40、今日一回目の座り込み。40数名が座り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の辺野古はさながら若者デーのようだった。

 北海道からの若い女性に加えて、東京のある大学の学生が6人、辺野古へ通い続けるゼミの指導教官に伴われて参加。

 ギターを抱えた青年は、今月23日から辺野古へ通い続け、今日が最後の日なのでと、自作の歌と詩を披露した。自分の言葉で抵抗を示したいとして、自前のメッセージボードに刻まれた言葉は「戦争に続く道を僕は歩まない。誰にも歩んでほしくない」

 辺野古へやってくる若者は少ないが、それでも、やってくる若者たちは実にしなやかで豊かな感性の持ち主が多い。その一人海さんもしばらく辺野古を留守にしていたが、ひと月あまり台湾、韓国を歩いてきたそうで、今日辺野古へ帰ってきた。若い人が多いとそれだけで全体に活気が湧いてくる。

 今日2回目、正午前の座り込みは、さらに人数が増えて60名余が座り込んだ。

 昼食後の休憩時間に大浦湾側から海の工事の様子を見る機会が得られた。その模様は、後日別項でお伝えする。

 今日の辺野古は千客万来。スエーデンから3人の学者・研究者が辺野古へ。非暴力の抵抗が社会に与える影響を研究しているという大学の教授らで、いま沖縄で何が起きているのかを調査に。座り込みにも参加した。

 午後3時前、今日三回目の座り込み。

 水曜日は他の曜日に比べて参加者の多い方だが、いつにも増して今日は活気にあふれた心強い一日となった。

 今週土曜日は辺野古県民大行動も行われる。

 

 

 

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映画「福田村事件」  

 29日(月)は、映画「福田村事件」を観に、沖縄市まで出かけた。桜坂劇場での上映を知りつつ日程が合わず見逃してしまい気になっていたので、友人から「沖縄市のシアタードーナツで31日まで上映している」と情報があり、入っていた他の予定を返上して、すっ飛んで行った。 

 100年前の関東大震災時に起こった、「朝鮮人虐殺」については多くの人が知るところだが、関連して起こった「福田村事件」についてはあまり知られていないという。私もその一人だった。

 [あらすじ]今から100年前の1923年9月1日に発生した関東大震災から6日後のこと。千葉県東葛飾郡福田村で、香川県から訪れた薬売りの行商団16人のうち、幼児や妊婦を含む9人が、福田村の自警団や退役軍人会を含む村人100人に惨殺された。行商団は、岐阜弁で話していたことで、朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。しかも偶然なのか、行商団は被差別部落の人々だった。

 

 観終わって、ただただ辛かった。肩、首筋はガチガチ、胃が痛み、観終わってしばらく立ち上がれなかった。(このブログを書きながらも胃が痛い)「朝鮮人が襲ってくる、井戸に毒を投げ込んだ」という流言飛語による不安と恐怖が集団心理となり、人々をここまで残忍にするのか。その根底に朝鮮人に対する「差別」意識が潜んでいる。

 この映画は、事件後100年もの間、歴史の闇に隠蔽されて来た事件を、しかも加害の側から描いて明るみに引き出した。しかも「朝鮮人差別」と「部落差別」という二大タブーに真正面から取り組んだとして評価されている。関東大震災では沖縄県出身者も、言葉の訛りから朝鮮人と疑われ殺害されたと言われているが、さすがそこまでは描かれていない。

 私は、映画を観ながら、渡嘉敷島の「集団自決」に思いが飛んだ。沖縄戦当時、日本軍が、特殊特攻艇作戦という軍事機密を守るために、島の住民の三分の一(3百数十人)を虐殺(自決に追い込んだ)した事件である。そこには沖縄人に対する差別が根底にある。その構図は、戦後80年近くが経っても、今も少しも変わらず「南西諸島の軍事要塞化」に繋がっている。

 映画「福田村事件」の監督はじめスタッフの皆さんには、是非事件のその後を描いた第二弾をつくっていただきたいと願う。ここでいま詳しく語る余裕はないが、渡嘉敷島の集団自決は、加害者も被害者も戦後を生きるのがさらに大変だった。そこを明かにすることが、事件が起こったことの根源を明かにすることではないかと思うからである。

 

 

 

2024年1月30日リンクURL