あの悲しみを繰り返さないために いま生きている 私たちで考えよう ~ 渡嘉敷島集団自決 79年目の慰霊祭

 参道は、村花でもある真っ赤なケラマツツジが咲き誇っていた。

 79年前の3月28日、村民の4割近い329名の命を、理不尽にも奪い去った「集団自決」(強制集団死)の慰霊祭が、今年も村の主催で執り行われた渡嘉敷村の白玉の塔。 

 慰霊祭は、「自決地」である北山(ニシヤマ)のふもと近くにある戦没者慰霊碑「白玉の塔」で、12:30分から行われた。時間前から次々と遺族や村民が訪れ、花を手向け、祈りをささげた。 

 吉川嘉勝さん当時7歳。親族で一個の手榴弾を囲み「自決」を図ったが、手榴弾が爆発せず、理不尽な死を納得できなかった村のカミンチュでもあった母親が、「そうだよ!死ぬのはいつでも死ねる。人間は生きれる間は生きるべきだ」と叫んで、一族を自決現場から立ち上がらせて抜け出し、生きのびた一人。のちに母親は、「何度叩いても手榴弾が爆発しなかったのは、生きなさい!という神様からのお知らせだった」と、語ったという。

 慰霊祭で式辞をのべる新里武広村長。「今ある島の発展と平和は、多くの尊い犠牲の上に築かれた。諸先輩方が遺していかれた恒久平和への思いを忘れることなく、この地から全国へ世界へ力強く発信していく」

 島の児童・生徒が折った千羽づると寄せ書きがささげられ、渡嘉敷中学校1年生の関根美祈(みのり)さんが、自作の詩を朗読した。

 

 青く澄みきった空

アカショウビンの声が聞こえる山々

風に揺れる波の音に

眼を閉じ 風のにおいを感じる

今日も この島は

いつもと変わらず私たちを包んでくれる

 

 学校では 友達と勉強したり 

遊んだり 笑ったり いろんなことが出来る

それは この島が平和だから

でも

世界のどこかでは 見えない国境や宗教のために 争いごとが起き

たくさんの人々がにらみあっている

食べるものに困り

貧困な生活にあえぎ苦しんでいる

家族に会いたくても会うことが許されない

辛くて 苦しくて 悲しい日々を送っている

あの日 この島で命を失った人たちだって

本当は おだやかで

希望に満ちあふれた日々をおくるはずだったのに…

 

 ならば 私たちで考えよう

命をつないできた 今生きている私たちで考えよう

世界にはたくさんの人が一生懸命生きている

たくさんの人が苦しんでいる

そんな人々のために 争いごとをなくすために

無関心でいる人々を一人でも救うために

自分と違った人と関わってみよう

自分と違った人を理解しよう

自分と違った人を受け入れてみよう

 

その第一歩として

隣の人のことを考えてみよう

今日の幸福のために

希望に満ちあふれた明日のために

二度と あの日の悲しみを繰り返さないために

 

 

 当時、祖父母が島の小・中学校長として赴任していて犠牲になったという4姉妹は、毎年の慰霊祭で自作の詩を歌詞にした「命どぅ宝」を歌う。   戦後生まれの4人は祖父母のぬくもりを知らない。「島の美しい自然に囲まれた白玉の塔にお参りするたび『おじいちゃん、おばあちゃん、会いたいよう!と叫びたくなる』と語った。

 忘れじと 思う心は 白玉の塔に託して 永遠に伝えん (中井盛才)

 

 来年は戦後80年の節目の年、人々の平和への思いは成就できるのであろうか!

 

 

2024年3月29日リンクURL

「本気で反対していることがわかった!」大阪から参加の小学生 ~ 今日(3月27日)の辺野古

 朝 6:30 毎週水曜日、私の辺野古行動は、モノレール安里駅から朝日を浴びながら始まる。

 日の出から1時間以内なら直接太陽を見つめても目に悪い影響はなく、むしろ健康にいいと聞いた。電車を待つ間今日一日の平安を祈りながら見つめた。

 今月初め、これまでの工事用ゲートからおよそ1.キロ北へ、新たな工事用ゲートがつくられ、座り込みのたびに休息用のテントから、およそ往復30分から40分徒歩で移動しなければならない。これが1日3回、高齢者や躰の不自由な人にはにはかなりの負担だ。

  

 それでもみんな元気に座り込んだ。朝9時前の座り込みはいつも30人から40人。ほぼいつものメンバーだが、今日は大阪から祖母と小学生の孫の組み合わせで二組の参加者が目を引いた。

 二人のおばあちゃんと

 小学生の孫たち。そういえば春休みだった。

 沖縄のおばあちゃん・おじいちゃんも負けてはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 二人のおばあちゃんは元教師、「沖縄へは2年に一度は来ている。でも行動を起こしたくても、現職時代はできないことも多かった。退職したらもう怖いものは何もない」(笑)。「孫たちがネットの影響を受けて、変なことを言い出すようになった。行く末が心配なので、まずは現場を見てもらおうと思って連れてきた」

 沖縄の人たちと一緒に座り込んだ感想を聞かれた子どもたち。「毎日たいへんだなぁと思った」「みんなが本気で(基地に)反対しようとしていることがわかった」(拍手)

おばあちゃん!心配はご無用のようですよ。

 正午前、二度目の座り込み。今度は東京からの若者たち。

「4年前にはじめて辺野古来た。沖縄の現実に驚き、本土では何も報道されていないことに気が付いた。自分にできることは何かと問い続け、今回は友人たちを誘って来た」

「知っているつもりだったが、聞くと見るとでは大違い。何て言っていいか言葉も見つからないが、このような行動を10年も続けている皆さんに、まずは敬意を表したい」

 「福島にもボランティア活動で行ったが、嫌なものを一部の人たちに押し付けて、自分は安全なところで暮らしていることが恥ずかしいし、そんな自分に怒りを感じる。その意味でフクシマと沖縄は似ていると思った。

 

 

 

 

 

 若者たち、機動隊に対しても、しっかり抵抗を示し、頑張っていた。頼もしくて、シニア世代も元気が出て励まされる。

 3週間ぶりの辺野古。新工事用ゲートは、抗議する人たちに対抗する国側の対策だが、なりふり構わぬやり方と、その意地の悪さと姑息さには腹が立つ。災害地などへのやるべきことはないがしろにする一方で、こういうことには、よく悪知恵が働くものだと思う。国民はいつまでこのような為政者を許しておくのだろうか? 

 

2024年3月27日リンクURL

56年間の仕事人生を卒業しました!

 思えば長い仕事人生だったなあ!と思う。

 19歳で入社した小さなラジオ局。60歳で定年後もフリーとしていくつかの番組をつくってきた。ここ10年は一つの番組に絞り、5分間月~金放送のミニ番組ながら、40年近く続く、この局でも2番目の長寿番組である。(この10年はちょうど辺野古のゲート前行動が始まったころと符合する)

 最後の収録が行われた今月初め、番組のしゃべり手であり、スポンサーでもある方からいただいた卒業祝いの花は、保存のきくブリザードフラワー(生花の一番美しい時期に色素を抜き取り、特殊な加工を施した花)。すぐに枯れてなくならないようにとの心遣いが嬉しく、胸に沁みた。

 親子2代にわたってお付き合いして来ただけに、お互いに愛着も並ではない。番組は局のベテランデイレクターに引き継がれ、これからも放送は続く。

 放送局の社長からは、「長い間お疲れ様」と、休日にも拘わらず、わざわざ出社して花束を手渡された。30代からお互いに切磋琢磨して、共に仕事をこなしてきた同僚でもある。局内ではいつも異端児的な存在だったので、フリーの仕事を終了するに当たって、まさか会社から花を送られるとは思いもよらず、驚き、感謝とお礼の声が詰まった。

 男社会のマスコミ業界で、報道、制作、営業(コピーライター)と渡り歩いたが、どの職種に行っても一匹狼か、女性はいつも私一人という状況の中、上司や仲間に恵まれ、かなりわがままな仕事をさせて貰ったと思う。

 沖縄の祖国復帰を挟んでの56年間、嘉手納B52墜落事故も、燃える井戸も、コザ騒動も、毒ガス移送も、復帰の朝も、交通方法変更も、通貨切り替えも、日中国交回復も、若夏国体も、国際女性北京会議も、少女強姦事件も、現場に立ち激動の沖縄を見つめ続けてきた。この仕事だったから、今の私がある、と言っても過言ではない。

 定年後は、自分がつくりたい番組を、自らスポンサーを見つけてきて番組をつくり放送するという手法で、自前の機材で自由に取材、週末のスタジオの空いた時間を使わせてもらうというわがままを受け入れてくれた会社には、感謝あるのみである。

 

2024年3月26日リンクURL