「本気で反対していることがわかった!」大阪から参加の小学生 ~ 今日(3月27日)の辺野古

 朝 6:30 毎週水曜日、私の辺野古行動は、モノレール安里駅から朝日を浴びながら始まる。

 日の出から1時間以内なら直接太陽を見つめても目に悪い影響はなく、むしろ健康にいいと聞いた。電車を待つ間今日一日の平安を祈りながら見つめた。

 今月初め、これまでの工事用ゲートからおよそ1.キロ北へ、新たな工事用ゲートがつくられ、座り込みのたびに休息用のテントから、およそ往復30分から40分徒歩で移動しなければならない。これが1日3回、高齢者や躰の不自由な人にはにはかなりの負担だ。

  

 それでもみんな元気に座り込んだ。朝9時前の座り込みはいつも30人から40人。ほぼいつものメンバーだが、今日は大阪から祖母と小学生の孫の組み合わせで二組の参加者が目を引いた。

 二人のおばあちゃんと

 小学生の孫たち。そういえば春休みだった。

 沖縄のおばあちゃん・おじいちゃんも負けてはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 二人のおばあちゃんは元教師、「沖縄へは2年に一度は来ている。でも行動を起こしたくても、現職時代はできないことも多かった。退職したらもう怖いものは何もない」(笑)。「孫たちがネットの影響を受けて、変なことを言い出すようになった。行く末が心配なので、まずは現場を見てもらおうと思って連れてきた」

 沖縄の人たちと一緒に座り込んだ感想を聞かれた子どもたち。「毎日たいへんだなぁと思った」「みんなが本気で(基地に)反対しようとしていることがわかった」(拍手)

おばあちゃん!心配はご無用のようですよ。

 正午前、二度目の座り込み。今度は東京からの若者たち。

「4年前にはじめて辺野古来た。沖縄の現実に驚き、本土では何も報道されていないことに気が付いた。自分にできることは何かと問い続け、今回は友人たちを誘って来た」

「知っているつもりだったが、聞くと見るとでは大違い。何て言っていいか言葉も見つからないが、このような行動を10年も続けている皆さんに、まずは敬意を表したい」

 「福島にもボランティア活動で行ったが、嫌なものを一部の人たちに押し付けて、自分は安全なところで暮らしていることが恥ずかしいし、そんな自分に怒りを感じる。その意味でフクシマと沖縄は似ていると思った。

 

 

 

 

 

 若者たち、機動隊に対しても、しっかり抵抗を示し、頑張っていた。頼もしくて、シニア世代も元気が出て励まされる。

 3週間ぶりの辺野古。新工事用ゲートは、抗議する人たちに対抗する国側の対策だが、なりふり構わぬやり方と、その意地の悪さと姑息さには腹が立つ。災害地などへのやるべきことはないがしろにする一方で、こういうことには、よく悪知恵が働くものだと思う。国民はいつまでこのようなことを許しておくのだろうか?

 

2024年3月27日リンクURL

56年間の仕事人生を卒業しました!

 思えば長い仕事人生だったなあ!と思う。

 19歳で入社した小さなラジオ局。60歳で定年後もフリーとしていくつかの番組をつくってきた。ここ10年は一つの番組に絞り、5分間月~金放送のミニ番組ながら、40年近く続く、この局でも2番目の長寿番組である。(この10年はちょうど辺野古のゲート前行動が始まったころと符合する)

 最後の収録が行われた今月初め、番組のしゃべり手であり、スポンサーでもある方からいただいた卒業祝いの花は、保存のきくブリザードフラワー(生花の一番美しい時期に色素を抜き取り、特殊な加工を施した花)。すぐに枯れてなくならないようにとの心遣いが嬉しく、胸に沁みた。

 親子2代にわたってお付き合いして来ただけに、お互いに愛着も並ではない。番組は局のベテランデイレクターに引き継がれ、これからも放送は続く。

 放送局の社長からは、「長い間お疲れ様」と、休日にも拘わらず、わざわざ出社して花束を手渡された。30代からお互いに切磋琢磨して、共に仕事をこなしてきた同僚でもある。局内ではいつも異端児的な存在だったので、フリーの仕事を終了するに当たって、まさか会社から花を送られるとは思いもよらず、驚き、感謝とお礼の声が詰まった。

 男社会のマスコミ業界で、報道、制作、営業(コピーライター)と渡り歩いたが、どの職種に行っても一匹狼か、女性はいつも私一人という状況の中、上司や仲間に恵まれ、かなりわがままな仕事をさせて貰ったと思う。

 沖縄の祖国復帰を挟んでの56年間、嘉手納B52墜落事故も、燃える井戸も、コザ騒動も、毒ガス移送も、復帰の朝も、交通方法変更も、通貨切り替えも、日中国交回復も、若夏国体も、国際女性北京会議も、少女強姦事件も、現場に立ち激動の沖縄を見つめ続けてきた。この仕事だったから、今の私がある、と言っても過言ではない。

 定年後は、自分がつくりたい番組を、自らスポンサーを見つけてきて番組をつくり放送するという手法で、自前の機材で自由に取材、週末のスタジオの空いた時間を使わせてもらうというわがままを受け入れてくれた会社には、感謝あるのみである。

 

2024年3月26日リンクURL

次世代に繋ぐ「うない(女性)ネットワーク」

 今年の3・8世界女性デーに、期せずして40年前、沖縄の女性たちが立ち上げた女性運動「うないフェスティバル」に焦点が当たった。

 

 きっかけは、昨年8月県外の友人たちと勝連半島の米軍・自衛隊基地の学習ツアーに参加したおり、ガイドをしてくれた若い女性に、ツアーが終了して別れ際「うないフェスティバルの〇〇さんですよね?」と、声をかけられた。どう見ても30代、40代の彼女に「どうしてうないフェスティバルを知っているの」とたずねると、県史で沖縄の女性史を調べていて、「40年も前に女性たちの素晴らしいネットワークがあった」と知り、興味を持ったとのこと。私が事務局として直接かかわった10年間についての報告書を送ると約束してその日は別れた。

 送った報告書はフェミブリッジという彼女の活動仲間の間で回し読みし、「是非直接当時の話が聞きたい」と声がかかった。彼女は、南城市長の性暴力問題にスタンディングで抗議したり、基地問題で抵抗の意志を示す黄色いリボン運動など、少数で活動している30代、40代の女性たちのグループだった。

 いくつもの女性グループが、同じ悩みを持ち、試行錯誤の行動をしながらも女性同士なかなかつながり合えない状況に、40年前県内の女性たちがこぞって参加した「うない」というネットワークがあったと知って、そこから何か学べるのではないかと思ったようだ。

 若いだけに、そこからの行動力が素早かった。

 まず、うないフェスの仕掛け人である私と、実行委員会座長を務めた高里鈴代さんに、数人で話を聞きに来た。話を聞いただけでなく、そのインタビュー動画にしてYouTubeにアップした。

 続けて第二弾を発信。

 粗削りながらネットラジオで発信を始めた。まだまだ反響は小さいようだが、続いて第三弾の行動を仕掛けた。 

 私は県外に出かけていてこの企画には参加できなかったが、当時うないフェスティバルに参加したという人たちも駆け付けて満席の盛況だったとのこと。

 第一回のうないフェスティバルが行われた1985年の女性たちの状況は、例えば私が働いていた放送メディアでいえば、女性のアナウンサーがニュースを読むなんてことは有り得なかった時代。私のいたラジオ局はうないフェスではじめて女性がメインの定時ニュースを読んだ。

 あれから40年経って女性たちの状況はどう変わっただろうか?大きく変わった面もあれば、全く進歩の見えない分野もある。とくに日本は、2023年の最新のジェンダーギャップ指数が、世界146か国中125位という恥ずかしい状況である。とても先進国と言えない。

 フェミブリッジの彼女たちはいま30代、40代。ちょうど私たちが「うないフェス」をはじめた頃の年齢に当たる。繰り返しになるかもしれないが、新たな女性運動の波を起こしてくれることを期待する。「うない」をまねるだけでなく、今の時代にあった新たな波を起こしてほしい。

 

 

 

 

2024年3月25日リンクURL